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ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組=新社会の建設=創設者の光と影=下元健吉没後50周年=連載《第4回》=過去のアンチ派の言い分=「創業の最大の功労者は村上」

プレ百周年特別企画

2007年9月29日付け

ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組
新社会の建設=創立者の光と影=下元健吉没後50周年
連載《第4回》=過去のアンチ派の言い分=「創業の最大の功労者は村上」
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)

 まず、アンチ下元派だが、実はそういう人々が居たという事は古くから言い伝えられていた。が、具体的な資料はなく、その派だった人々が現存するかどうかも不明であった。
 筆者は、以前、それを探してみたが、手がかりすら掴めなかった。ところが、今回の取材中、運よく両方とも見つかった。
 一つは南米新聞という邦字紙に連載された下元批判の記事で、その保管者が、わざわざ人を介して届けてくれたのである。
 捲ってみると、一九六〇年から翌年にかけて十数回にわたり久保勢郎という人の投稿記事が載っていた。
 久保は一九三三、三六、三八の三年度、コチアの監事(監査役員)を務めた組合員である。コチアの創立は一九二七年であるから、それから余り遠くない時期である。
 その南米新聞を提供してくれたのは、佐伯カタリーナという年輩のご婦人で、久保は実父だという。
 カタリーナさんの親族の中には、結婚後の義理の叔父で、佐伯勢輝という組合員もいた。コチアでは名前の知られた存在であった。当時を知る元職員に聞いてみると、「あ、あ……久保と佐伯は、二人ともアンチ下元派だった」と思い出してくれた。
 で、久保の記事であるが《虚構に満ちた歴史『〔コチアの歩み』に寄せて》という見出しがついている。
 『コチアの歩み』とは、一九五九年に出版されたアンドウ・ゼンパチ著『コチア産業組合三〇年の歩み』のことで、下元専務の依頼で、アンドウが執筆した書物である。本が出来上がったのは、下元の死後であったが……。
 久保は、その投稿の数年前、コチア創立当時を熟知する常深光治という友人から、次の様に言われていた。
 「コチアには、三十年史の編纂計画があるが、どうも現在の幹部に都合よく歪曲される可能性が強い。先日も、日本から来た記者が下元さんの話を取材した。自分も招かれて同席したが、創立当時を語る下元さんの話が、丸きりデタラメで、組合は自分だけで創立し、発展させてきた様な話しぶりだ。それも、その嘘を意識した話しぶりならよいが、本当のような気分と態度で話している。
 ここらで、組合幹部でなく自己の利害を考えない第三者が、本当の組合史を書いておく必要がある。君、一つ考えてくれないか」
 その後、アンドウの『三〇年の歩み』が出版されたわけであるが、それが八冊も手紙付きで、久保に送られてきた。内容に不満を持つ人々からである。
 久保は本と手紙を見て、前記の投稿をする気になったという。その内容は長文であり、ここに転載することは困難であるが、久保は要するに、
 「この本で、下元の功績であるかの様に書かれている創業期のことは、実際は村上誠基が下元を表に立てて、陰でやったことである。さらに当時、組合経営で、下元は何度も窮地に陥ったが、そのときも村上が裏から助けて、切り抜けさせた。コチア創業の最大の功労者は村上で、下元ではない。下元は、その他数名の協力者の一人に過ぎない」と主張している。
(つづく)