プレ百周年特別企画
2007年10月3日付け
ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組
新社会の建設=創立者の光と影=下元健吉没後50周年
連載《第6回》=「コチアは高知屋」=濃厚な血縁・郷土閥意識
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)
「ここで書いている連中は、下元に世話になった、恩恵を受けた人間だ。この連中が、実物とは違う下元健吉のイメージを作りあげた」
「下元は、皆が言う様なスーペル・オーメンではなかった。経営もコンタビリダーデ=会計=も判っていなかった」
「コチアは、高知屋と皮肉られた。下元もゼルヴァジオも片山も高知だ」
ゼルヴァジオとは、井上ゼルヴァジオ忠志のことで、下元は日本が第二次世界大戦へ参戦した翌一九四二年、まだ若かった彼を組合監事とし、三年後には理事、そして十一年後には理事長にしている。
片山はさらに、それから三十四年後、後を継いだ片山和郎のことである。
高知といっても、二人とも二世だから、父親の郷里を指している。
この話は「コチアのトップの人事は、もともと創立メンバーの大半を占めた高知県人の郷土閥意識から成っており、いつまで経っても改められなかった。他県人が圧倒的に多くなっても……」という意味であろう。
郷土意識は、一般的にも、戦前一世には濃厚にあった。血縁者を、さらに上位に置いていたから、血縁・郷土閥意識とも言えよう。
ちなみに下元は、監事に井上を起用する以前に、別の若者を候補に考えていた。それは、同じ高知県の同村・同郡人の二世で、しかも自分の甥であった。(下元は実兄夫婦と共にブラジルに渡航した)
この人事は、当人が組合入りを嫌がったため流れた。そこで、次に白羽の矢を立てたのが、隣の郡の出身の井上晴馬という組合員の息子のゼルヴァジオであった。
筆者は、以前は、下元がゼルヴァジオを引き立てたのは「彼の学業成績の優秀さ、ポルトガル語、日本語の堪能さ、人柄の良さに早くから着目していたから」と思っていた。
が、二番目の候補であったわけだ。
下元そしてコチアの幹部には、事実、濃厚な血縁・郷土閥意識があったかもしれない。コチアの年度別役員名簿を見ると、一九六六年、下元の甥(前出の甥の弟)が監事になり、翌年理事になっている。その数カ月後、下元は死亡しているが、数年後には、下元敬愛派の役員の工作により、下元の次男が理事、次いで専務理事になっている。
ほかにも、高知県人が重用される事例が多数あり、一般の組合員や職員に釈然としない印象を与えていたようだ。
最近、パラナを旅行したとき、元職員から聞いた話だが、昔、あるコチア人が、「ワシは一度、日本に帰って、戸籍を高知に移して来るよ」と冗談のように言っていたという。
X老人の辛口の下元論は、さらに続く。内容は系統立ったものではなく断片的だが、それを羅列、若干の説明を付しておく。
「反産運動などなかった。皆、内輪揉めだった」
反産運動とは、戦前の用語で、産業組合の精神に反する言動を指し、下元は、自分に反抗する組合員に、よく、この言葉を使って反撃したという。
(つづく)