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ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組=新社会の建設=創設者の光と影=下元健吉没後50周年=連載《第7回》=役員を批判しまくるX老人=業務改革や人事の〃裏話〃

プレ百周年特別企画

2007年10月4日付け

ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組
新社会の建設=創立者の光と影=下元健吉没後50周年
連載《第7回》=役員を批判しまくるX老人=業務改革や人事の〃裏話〃
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)

 「バタタ=馬鈴薯=販売部に阿部芳治という事務員が居った。バタタの販売は、組合の創立以来、仲買人と同じやり方だった。そこで阿部たちが、工夫して共同計算制を作り上げた。その阿部は、話すときの発音が不明瞭で、相手はよく聞き取れなかった。頭はよかった。ところが、下元が、その阿部に『日本語で言え、俺には判りゃせん』と怒鳴った。阿部は辞めて行った」
 共同計算制……云々というのは、それまで組合員の出荷物別に行っていた販売方法を廃して、出荷物に等級をつけ、その等級ごとに一括して販売する様にした業務改革のことである。
 カナダで小麦か何かの販売に、その方法が導入されているという事は知られていたが、具体的な内容は不明であった。それを阿部たちが考案して始めた。これは後にコチアの代表的業務改革の一つと言われるようになった。
 そういう功績のある職員に心無い暴言を吐いて組合を去らせた、というのである。
 「そのようにして折角作った共同販売制の販売部門も、実は販売員が身体に故障があるとか、ポルトガル語が話せないとか、日本語も方言しか喋れない……という具合だった。しかも組合員は、自分の出荷物が正当な値段で売れているかどうか判らぬ仕組みになっていた」。
 下元は、こういう人の使い方、業務管理をしていたというのである。
 「ある時、理事の中島長作が、下元を訪ねて用談中、下元が突然、中島の頭を殴った。中島は『お前が専務なら、俺も理事。その俺の頭を殴るとは…!』と激怒していた」。
 中島は一九三五年から四一年まで監事や理事を務めた人である。
 「出荷組合の利益の一部を積み立てて、部落々々の中央に、広場やスポーツ施設を作る、という案をワシが出したことがある。すると、下元は『百姓どもに、そんな事をしたら、つけあがっていかん』と。百姓ども、つけ上る、と……。ワシは、本当にガッカリした」。
 出荷組合とは、コチアの組合員が部落=地域=別に作った小組合のことで、それ以前に組合本部で担当していた生産物の搬出、営農・生活用品の搬入の仕事を、ここに移管していた。
 「組合幹部の息子や甥が、組合に職員として入ると、八割までが金を使い込んだ。すると、下元が『自分が払う』と。ところが、組合は年末の役員賞与に、それを入れて下元に返していた」。
 X老人は、戦中から戦後にかけて理事長や理事など役員をつとめたブラジル人たちも斬りまくった。
 第二次世界大戦への日本の参戦時、下元は日本人役員の総辞職と、後任への彼らの起用を断行した。これが組合を救ったと言われる。
 戦後も、彼らは続投した。理事長などは一九五六年、死亡するまで務め、さらに、その肖像画が、二〇〇四年、組合が解散するまで下元のそれと共に、組合本部や事業所の壁に掲げられていた。
 ところが、X老人によると、彼らには在職中、女性問題や金銭問題があり、私生活が、ひどく乱れている者も居た、という。
 トンネル会社をつくって、組合からそこへ販売した出荷物をサントスに入港する外国海軍の軍艦に法外な値段で売ったこともあるという。
 従って、下元の右の人事は、言われる程のものではなかった、というのだ。
(つづく)