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ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組=新社会の建設=創設者の光と影=下元健吉没後50周年=連載《第9回》=同郷人への敵対と郷土閥=錯綜する県人意識の両面

プレ百周年特別企画

2007年10月6日付け

ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組
新社会の建設=創立者の光と影=下元健吉没後50周年
連載《第9回》=同郷人への敵対と郷土閥=錯綜する県人意識の両面
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)

 なお、このX老人が在職していた時期、コチアは拡大を続けていた。
 組合員は一九二七年の創立時の八十三名が、三八年には千五百名となり、日本の参戦時には二千名を越し、終戦時には三千名を数えていた。
 従業員は、三四年の十数人が四五年には千数百人になっていた。事業地域はサンパウロ近郊から州西部方面、州外へと広まっていた。
 その拡大と下元のリーダー・シップとの関係について問うと、X老人は、
 「組合員が植え付けを増やせば、組合なんか放っておいても、大きくなるさ」
 とプイと横を向いてしまった。
 さらに、下元は、三〇年代末頃から(当時、日系組合で組織され、下元が専務理事を務めていた日伯産業組合中央会主催で)産青連運動を起こしている。組合員の子弟や若手職員を利用し、組合活動を活性化させようとした運動である。
 これは非常な成功を収め、下元の人気が上昇した。創業期を抜けた頃からの事業的成功と若手の支持、これは下元のコチアに於ける立場を強固なものにした。
 筆者は下元を批判する諸説について、パラナ州カルロポリスに住む伊藤直氏を訪れた際、意見を聞いてみた。
 同氏も九十を幾つか越えているが、至極、元気そうであった。終戦の頃から下元と縁ができ、その死まで、何かと付き合いがあったという。
 筆者の問いに同氏は、
 「高知県人というのは、同郷人を、よく言わないからネ」
 と、サラリと言ってのけた。 
 ハッとしたものである。サンパウロへ戻って調べてみると、久保勢郎、佐伯勢輝、常深光治、村上誠基、吉本亀、中島長作、そしてX老人、川上嵩……ことごとく高知県人なのである。灰皿を下元に投げつけた川上など下元の従兄弟であった。中尾熊喜のみが他県人だった。
 別人の説だが、高知県人の有力組合員は下元の足を引っ張り続けた、という。 これは一体どういうことなのか?
 濃厚なまでの郷土閥意識と同郷人に対する批判・敵対的言動、これは全く相反する。
 この疑問をX老人に二度目に会った折、聞いて見ると、ニヤニヤしながら、こう答えたものである。
 「良く言わない……のではない。競争意識だよ、高知県人の……」
 高知県人というのは、県人同士の競争意識が、ひどく強いという。
 筆者は、これを昔のこととして聞いていたが、
 「今でも、そうさ。だから、ホラ、よその人間を連れてきて知事にしている。あれは、知事候補に推す人材が居なかった……のではなく、競争意識が強すぎて候補を一本に絞れなかったためサ」
 この「競争意識」を、別人との雑談の中で話題にしてみたところ、「高知の名物は、土佐犬の犬闘だ。アレは、その競争意識の露出だろう」と言っていた。
 これで大分、判ってきた。つまりアンチ下元派は、世上、コチアの建設事業が下元一人の功績であるかの様に扱われていることが、許せないのである。
 「俺たちもやったのだ」
 と叫んでいるのだ。
 久保は記事の中に、自分のコチアに対する貢献談を挟んでいたし、このX老人も話の中でそうしていた。
 勿論、筆者も下元一人の功績などとは思っていない。
(つづく)