プレ百周年特別企画
2007年10月10日付け
ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組
新社会の建設=創立者の光と影=下元健吉没後50周年
連載《第11回》=多くの有力者とケンカ別れ=コチアの牙城に帰っていく
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)
志村氏の話、続く。
「ゼルヴァジオがある時、何かのキッカケで、中沢さんの下元に対する感情に気がついて『中沢さんは下元さんを嫌っていたのだ』と驚いてワシに話したことがある」
これもX老人によると、「嫌っていたのではない。それも競争意識さ」
ということになる。
中沢には『農協と共に四十年』という著書があるが、筆者は、これを読んでいて、中沢が「スールがコチアに大きく差をつけられていることを意識しない」という意味のことを、ボカして書きながら、意識し過ぎている臭いが行間に漂う箇所が幾つかあり、気になったことがある。
サンパウロ人文研が発行した『下元健吉──人と業績──』にも、中沢は「下元さんの思い出」という文章を寄せている。
以前、一読したときは、こうした故人の業績をテーマにしてまとめられる書物にありがちな称賛一方の内容ではなく、下元を長所と短所の両面から捉え、人物像を浮かび上がらせている点に感心した。
が、執拗に下元の性格上の欠点を指摘しているのには、不自然さを感じたものである。
今回、高知県人の県民性を教えられ、それを念頭において、改めて、この二冊に目を通してみると、
「そういうことだったのか……」
と、それまで見えなかったものが見えてきた。
中沢も高知県人である以上、当然、競争意識が強かったであろう。教養で、それを押さえていたであろう。が、ときに、無意識の内に漏れてしまうことも、あったのではあるまいか。〔下元さんの思い出〕の中に、次のような一節がある。
「こんなことを申し上げるのはどうかと思うが……コチア組合以外のコロニアの会に於いては、結局、下元さんは多くの有力者と喧嘩別れになり、コチアの牙城へ帰っていくという風で、コチア組合以外の会合で人をまとめて行くことには、どうも余り成功されなかったようである」
これを読んで、中沢がスール以外の、援協とか文協といったコロニアの中核団体で、会長をつとめリーダー・シップを発揮したことを思い浮かべ、それに高知県人の競争意識を絡めている内に、
「組合経営では大きく差をつけられたが、コロニアの社会事業では、下元さんは失敗し、ワシは成功したのだよ」
と笑いながら自負している様が、浮かんできた。無論、筆者の想像である。
この中沢も、下元が他県人から批判されると、擁護に回っている。
下元は前記のように、戦前、日伯産業組合中央会の専務理事のポストに在り、中沢は「下元さんの思い出」の中で、その中央会専務としての下元の資質を散々けなしている。ところが、日本から産組運動=活動=の指導に来ていた宮城孝治に、下元の同中央会専務としての適性を問われると言下に「至極適任と思います」と答えた……という。それでいて、その説明はしていない。
これなど読者を混乱させるが、県民性を考慮に入れると、自然な反応であったのかもしれない……という気がしてくる。
(つづく)