プレ百周年特別企画
2007年10月10日付け
ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組
新社会の建設=創立者の光と影=下元健吉没後50周年
連載《第12回》戦前は日本に国防醵金=戦中は伯空軍へ飛行機
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)
下元批判は、他県人がする場合、複雑さはない。言葉通りに受け止めてよさそうである。
昔、コチアの理事を務めた阿部牛太郎氏は、八十歳を少し越えているが、張りのある声で語る。
「終戦の頃、マリリア方面に居たが、一九四六年、青年会の仲間とサンパウロへ来たとき、ある人から『下元健吉に会ったことがあるか、なければモグリだ』と言われて、コチアの本部へ連れて行かれた。
下元の部屋へ入って行くと、丁度、昼食後で休んでいたのだろうが、椅子にふんぞり返っていた。
『おお、よく来た。ウンウン』と言って応対してくれたが、印象はよくなかった。信用できない顔つき目つきだった。土方の親方かヤクザの親分のようだった。
その後、今の土地(マウアの近く)に移り、地域の人が皆、コチアに入ったので、自分も入った。
ワシは第一印象から下元を買ってはいない。これは当たっていたと思う。
最近、新聞に出たが、戦争のとき、飛行機をブラシルの軍に贈っている。実は、あれはサンパウロとリオで一機ずつ計二機贈ったということだ。その資金は何処から出たのか。当時、組合員は組合の財務を調べる余裕などなかった。
下元は戦前、日本軍のために国防醵金というものを組合でしている。(やっていることが矛盾する、の意)下元は、村上誠基はじめ自分の気に入らない人間は、次々排除した。
ワシは、コチアは下元以外の他の創立者が偉かったのだ、と思っている。
ただ、こういう事があった。下元が死ぬ少し前で、ワシが組合の総会に出席したときのことだ。死んだ理事長のヴィウーヴァ=未亡人=に組合から見舞金を出す、という案が提出された。
対して、出席者の一人が『ケトウの女房は亭主が死んでも、直ぐ代わりを見つける。見舞金なんか出す必要はない』と発言した。すると下元が『ナニぬかす。今の言葉、取り消せ!』と一喝した。その迫力に圧倒され、発言者は取り消した。
あのときは、今の言葉でいうリーダー・シップのある男だと思った」
前出のパラナ州カルロポリスの伊藤直氏の場合も、一時期、下元にしらけた気分を抱いたという。ただ、この人の場合、後に見直している。
伊藤氏は、終戦後、認識運動に関係したとき、下元を知った。その下元が支援して創立されたパウリスタ新聞に入社したが、二年ほどで退社した。
その後、下元から「養鶏組合員用の飼料ミーリョの生産地を作りたい。適当な土地を探してくれ」
と言われ、奥地を回りカルロポリスに土地をみつけ、下元に報告に出かけた。ところが、下元は「あー、アノ件は理事会で否決された」とアッサリ一蹴してしまう。謝りもしなかった。
下元は、こういう具合に事の経緯を無視、相手の感情を逆撫でする言葉の使い方をする短所もあった。
伊藤氏は、以後、下元から遠のいた。カルロポリスの土地には自身が入植した。三年くらいして、コチアがパラナに進出することになり、カルロポリスに拠点を置いた。それで付き合いが復活、見方を改め、やがて「高知県は凄い人を出したなー」と思うようになった、という。
(つづく)