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ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組=新社会の建設=創設者の光と影=下元健吉没後50周年=連載《第13回》=モジ進出を巡る〃伝説〃=地域拡大戦略の正否問う

プレ百周年特別企画

2007年10月12日付け

ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組
新社会の建設=創立者の光と影=下元健吉没後50周年
連載《第13回》=モジ進出を巡る〃伝説〃=地域拡大戦略の正否問う
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)

 下元健吉には、他組合の縄張りを荒らしたという批判もある。前出の久保勢郎なども、それが、同じ地域での無用な競合を招いた、と批判している。
 産業組合というものは、その理論から行けば、一地域一組合というのが原則であった。
 が、下元は組合創立間もない頃から他所の地域へも進出、既存組合のある所へも事業拠点を置いた。その最初のケースが、一九三五年のモジ進出である。
 ここには、すでに邦人農業者のモジ産組が生まれており、後々まで語り継がれる騒動に発展した……ということになっている。
 この話には「下元が攻め込んだ」とか「モジ産組の理事長・渡辺孝が総会の席上、下元の侵略行為を怒って絶叫中、興奮のあまり心臓マヒで死亡した」とか色々な伝説が生まれた。
 今回モジを訪れ、当時の事情を知る人を探して話を聞いてみたが、どうもこの話、大袈裟であるようだ。
 その一人、当時、モジ産組の組合員で戦後、理事長をつとめた根岸健治氏は九十代も半ば過ぎという高齢であったが、話すことはハッキリしており、記憶も確かであった。
 「コチアとの対立は、理論上の問題でたいしたことではなかった。新聞紙上で、二、三回論争しただけ。喧嘩と言っても悪質なものではなかった。
 渡辺さんが会議の席上で倒れたのは、コチアの進出より後の事で、当時、モジ産組には渡辺のコントラ(反対派)があり、組合は二つにも三つにも割れゴタゴタしていた。会議の席上倒れたのは、それが原因。下元さんのことではない」
 調べてみると、渡辺の死は一九三九年で、コチアの進出から四年も過ぎた頃である。
 やはりモジに伊藤武二さんという人が居る。根岸さんと同年輩である。当時は、モジ産組の組合員であった義兄の所で働いていた。
 その伊藤さんが、こう語る。
 「渡辺さんが、新聞の紙面を通じ『モジには組合があるのに、なぜコチアが出てくるのか、自粛してくれ』と。組合員が、そちらへ移ったら困るから出て来ないでくれ、と。それに下元さんが反論した。が、この論争は中途半端で終わった」
 下元が進出したのは、資料類によると、モジ産組の組合員が、コチアへの鞍替えを図ったのがキッカケになっている。その通りだとすると、渡辺のリーダー・シップにも問題があったのであろう。
 伊藤さんの話、続く。
 「渡辺は、口先だけの百姓だった。家なんかもサッペ小屋で、棒で支えていた。(雇用された)青年が居って、ヤリクリしてトマテをつくっていたが、良いものをつくったためしがなかった。その後、コチアは奥地へドンドン進出して発展、モジは地元だけだったため先細りになった」
 下元が、他地域へ進出したのは、この国の農産物の流通形態を検討、組合は事業範囲を一地域に限定せず、サンパウロ市を中心に広範囲に拡大して行くべきだ、という結論を出したからである。
 サンパウロは大市場であると同時に、流通の要(かなめ)で「総ての農産物はここに集まり、ここから出て行く」と言われた。
 この事業地域の拡大戦略は、戦後スールも倣った。ところが、すでに地元に組合が一つならず二つ三つもある所もあり、その場合、コチアやスールまで出て行くと、確かに乱立状態となった。
 そして結局、コチアとスールが他の小組合を事実上、併呑して行く結果となった。
(つづく)