話変わって、下元は戦前の邦人社会、戦後のコロニア指導者の間では敬遠されていたという件であるが。
──これについては、前項の中沢源一郎の言葉の中にも出てくるが、コチア関係者も、その点は認めている。
戦前、産青連の運動に参加、そこで下元を知り、敬愛者の一人となり、戦後、コチアの役員を何度か務めた北パラナの松原宗孝氏は、「親父は、コチアの外では、全く駄目だった」と残念そうに首を振る。
下元が、敬遠された具体的事例として、これは戦前の話と思われるが、中沢が「下元さんが、組合の問題で何か用事があって、他の組合の役員を呼びつけることがあったが、次第に誰も行かなくなった、自分もそうした」という意味のことを書いている。
下元が相手の都合も聞かず、しかもコチアへ呼びつけ、一方的にしゃべりまくる無礼さが嫌われたのである。
日伯産業組合中央会に長く勤務した堀清も、
「コチアの下元とか下元のコチアとか、人は言うけれど、中央会の下元とか下元の中央会とは誰も言わない」
と書き残している。
下元は同中央会で産青連運動を起こし、これを大きく盛り上げている。しかし、それと中央会内部での人気とは別であった。
当時、邦人社会には「下元何するものゾ」という空気が生まれていたという。
すべて下元の、外部の人間に対する接触の仕方の拙さが生んだ結果である。
一九四二年、日本の参戦で、邦人社会の資産が政府に接収される危惧が強まったときのことである。
下元は、その最大の資産であった日本病院を守るため管理権をコチアに移行するという案を当時の邦人社会指導者たちに出した。が、指導者たちは、そうしなかった。
日本病院は結局、下元の危惧に近い形となった。下元の案は正しかったのだが、ものの言い方が強引で自分の考えを相手に押し付けるという印象を与え、反発を招いたのである。
終戦時、祖国日本の敗戦を認めるか否か……の、いわゆる勝ち負け騒動が起こり、敗戦認識運動が始まったとき、下元もその運動を起こしている。
このコロニアの認識運動は、一つにまとまっていたわけではなく、サンパウロ市内だけでも、宮腰千葉太を中心とする派、下元健吉を中心とする派、その他と別れていた。
何故、一緒にならなかったのか。下元以外の人々が、彼と行動を共にすることの難しさを考慮したのであろう。
現に、その認識運動が一段落した頃、ある会合の席上、下元は大先輩の南銀の宮坂国人を、厳しく攻撃、出席者を驚かしている。宮坂が、日本の敗戦に関して曖昧な態度をとった点を非難したのである。
(もっとも宮坂は後に、本稿序文で記したように、下元を高く評価している)
一九五四年、サンパウロ市創立四百年祭の折、当時のコロニアの指導者・山本喜誉司は勝ち負け騒動を終結させるため、同祭典へのコロニアの総力をあげての参加を図り実現する。
このときブラジル社会へのお礼の意味での記念事業をすることになり、指導者たちが集まって相談したことがある。
種々の案が出され、下元はサンパウロ大学に原子力かなにか……ともかく最先端技術の研究室を贈ることを提案した。が、結局、山本の「イビラプエーラ公園への日本館寄贈」という案に落ち着いた。
今日考えてみると、下元案の方が、発展性があったように思われる。
この場合も、下元の人気の無さが禍となって、案は採用されなかった。
(つづく)