プレ百周年特別企画
2007年10月18日付け
ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組
新社会の建設=創立者の光と影=下元健吉没後50周年
連載《第16回》=コチア拡大の源泉は敬愛派=若者たちは「親父」と慕う
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)
アンチ下元派が居ようが、邦人社会つまりコロニアの指導者たちに敬遠されようが、下元は戦前、戦中、戦後とコチアの経営を牽引し続けた。
それが出来たのは、無論、それだけの実績を上げていたことによる。
終戦の数年後から何回か会った人の話では、その頃の下元は、最早、揺ぎ無い存在感を他に感じさせる様になっていたようである。
当時、コチアのモジ地域の評議員(組合員代表)であった木村保さんが、その人。木村さんは、なんと百歳になるという。が、話す言葉も内容も驚くほど明瞭であった。
終戦後、評議員の仕事で時々サンパウロへ行き、下元健吉にあったという。下元の方が九歳ほど年長であった。
「組合本部へ行っても、下元さんと会わなければ用が足せなかった。下元と話せば安心できる、落ち着くという雰囲気があった」という。
「下元は、いつも新しい下着を着ていた」というから、まだテロの危惧が消えなかった時期であろう。
年齢的には下元が四十代から五十代、木村さんが三十代から四十代の頃である。
先に実績を上げていた……と書いたが、コチアは拡大に次ぐ拡大を続けた。戦前、戦中については、すでに記したが、戦後も同様で、下元が没した一九五〇年代末には、組合員は六千名に近く、事業地域は四州に広がり、倉庫=地域事業所=は四十数カ所に増えていた。
何故、そう拡大しえたか?
要するに、農産物のサンパウロ市場が無限に近い拡大を続けており、産組運動も盛り上がり、日系農業者も近郊に集中する中で、下元が、その波に乗るべく独創的な経営戦略を次々と展開したことによる。
これは戦前からのことである。
独創的な経営戦略とは、既述した事業地域の拡大の他、増資積立金制度などが上げられる。増資積立金制度とは、組合員からの出荷物の販売の折に販売額の何パーセントかを、自動的に「増資積立金」として徴収する仕組みで、コチアは、それを資金に投資を繰り返し、各種施設を次々と建設した。
それと、経営を牽引し続けることが出来たのは、もう一つ、強力な支持者層を持っていたことによる。組合員、職員の中の若者たちである。
その人気の源泉は何かといえば、彼ら若者たちが下元を指して使用した……生存者たちは今も使用する「親父」という言葉に込められているように思われる。
昔の日本人社会に存在した「怒鳴られても嬉しい、優しくされれば、なお嬉しい」という……あの、親父が親父であった時代の、その親父の魅力を下元は溢れさせていた。
無論、既述のように初対面で反発を感じた者もいるが、より多数が下元を深く知れば知るほど──特に仕事場以外での下元に接したりすると──その人柄に魅入られたという。
彼らは、こう書き残している。
「下元さんを慕う私の心理は親同様、組合本部で姿を見出さぬ時は、自宅まで押しかけて元気な顔を見ないと気が済まないようになっていた。別に話さなくてもよいのです。奥さんを始め家族の人々と話していると、なんだか自分の親許へでも帰ったような安心感がわいてくる」
(つづく)