プレ百周年特別企画
2007年10月19日付け
「怒鳴られながらも、彼を親父さんと慕い、身命を賭しても、という気持ちを従業員達に抱かせた」
下元の、こういう魅力が一九三〇年代末からの、産青連運動を成功させ、組合内外に下元を慕う若者を増やした。
その中には、終戦後、テロ旋風が吹き、下元が狙われているという噂を聞くと、その自宅に泊まり込んで護衛に当たった者もいる。
その若者たちも、今日では、生存者は少なく、しかも八十、九十……若くても七十代になっている。が、五十九歳で死んだ下元を「親父」と呼んで懐かしむ。
元職員・高柳清氏は、現在八十代半ば。若い頃はバストスに居って、野球の選手として知られていた。一九四一年、十八歳のときサンパウロへ出てコチアに就職した。以下、同氏談。
「コチアに入るときは、親父が面接してくれた。ブラーボな=怒りっぽい=人という噂を聞いていが、そうでもなかった。良い人だと思った。組合の従業員としての心構えをいろいろと話してくれた。
当時、従業員は三百人足らずだった。アニャンガバウーの中央市場のコチアの販売所の鶏卵部に配属された。夜はレウニオン=会議=をしたが、そこへ親父が月に一度やってきた。
当時、吊りズボンが流行っていて、従業員の一人が本物の鰐皮のズボン吊り、派手なスーツ、ネクタイ、靴下、鰐皮の靴という身なりでおった。
それを見た親父が注意した。ところが、その従業員が口答えした。すると親父は本気で怒った。『組合員が、そういう派手な姿を見たら、どう思うか。彼らは土まみれで働いているのだ!』と。
私が組合に入ったその年、日本が戦争を始めたが、そのとき私はスザノの倉庫=事業所=にいた。従業員は五、六人だった。そこへも親父が月一回まわってきた。親父は我々に『こういう時期だから、組合員は君たちが守ってやってくれ』と。『ハイ承知しました』と普通に答えると『そんな返事では駄目だ』と。で、気合を入れて『任してください!』と言うと、『その返事ならよろしい』と。それから『本部の方は我々が守るから、倉庫は君たちが守ってくれ』と。
親父は、コチアのためとなると一生懸命になったし、組合員を守ることに徹底していた。倉庫に来ると『組合員が抜け売りしても、直ぐには除名するな。抜け売りするには、それだけの事情があって、しているのだ。生産者は大変なのだ。彼らがよく判るように説得せよ』と。
親父は話をするとき、前置きなしで本題に入ってしまう癖があったが、説得力があった。聞いていて、私は感動した。
親父にはユーモラスな一面があった。本部の駐車場に車を入れようとして、横の車をこすった。それを見ていた従業員が『アッ、親父がこすった』と冷やかした。親父は『向こうの駐車の仕方が悪い』と頑固に言い張っていた。が、事務所の二階に上がって行って、マカコ=猿=というあだ名のブラジル人の従業員に、こすった車を修理屋へ持って行くように言っていた。その様子が、ひどくユーモラスだった」
(つづく)