プレ百周年特別企画
2007年10月19日付け
志村啓夫氏は既に登場した。一九四一年当時、マリリアに居って、地元の組合から事務見習いということで、サンパウロへ派遣された。この人は産青連のメンバーである。
「下元の親父の所へ挨拶に行くと、『おお、そうか。それなら俺の家に下宿しろ』と。一年くらい下元の家に居った。その後、マリリアに戻ったが、会議や何かでチョクチョク、サンパウロへきて、その度に親父に会った。
親父の第一印象は余りよくなかった。(この親父、相当ガメツイのではないか)と思った。実際知ってみると、そうでもなかった。
経済的には、親父個人としては相当詰まっていた。組合でヴァーレばかり切る=給料の前借をする=ので、給料日には清算のアシーナ=署名=をするだけ。下元家の住宅は夫人が、借金して建てたと聞いている」
この個人の経済問題について、下元の長男のマリオ氏に聞いてみた。同氏は八十歳くらいになる。
「親父は家の事を構わないので、母から言われて、給料は私が組合に受取りに行った。ヴァーレの紙だけのことも度々あった。母が、それを見て怒っていた。
一九五〇年代、住宅を建てたが、これは母が親戚から、お金を借りて建てた。その返済は何年かかけて、親父の年末の賞与でした」
既述の家庭での下元は穏やかそのものだったという話も、このマリオ氏から聞いたものだが、それを少し追加すると次のようになる。
「親父は、家では犬や猫を飼い可愛がっていた。猫など食事のときも一緒、夜寝るときも一緒で、親父のカーマ=寝台=で子猫を生んでしまったこともある。親父は趣味に蘭の栽培もしていた。大きなハウスを建てて。死んだとき数えると二千五百鉢もあった。
私は親父に叱られたことは一度もない。我々子供を叱るのは母親の役目だった。親父は『パパイは組合の仕事があるので、ママイのことは、お前たちが気をつけろ』と言っていた」
下元健吉は、その自宅で多くの若者と付き合っていた。可愛い息子を見る様な表情で。当然、こういう人々の間からも敬愛派が生まれた。
再び志村氏の話。
「親父は、戦時中、奥地事情はポンペイアの今本浄、パラナの小笠原一二三、ロンドリーナの平田勉、マリリアのワシ(志村)、アルバレス・マッシャードの原田孝男などがサンパウロに出てきたとき、家へ呼んで聞いていた。皆、産青連のメンバーだ。
ブラジル事情は、二世のジョゼー山城、オナガ・ヒデオ、井上ゼルヴァジオ、安田ファビオ、下元アカシオ健郎らを集めて聞いていた。準二世の森田芳一、橋本悟郎、斉藤広志、増田芳一のグループもあった」
(つづく)