プレ百周年特別企画
2007年10月24日付け
元職員・遠藤健吉さんの話の続き。
「兄の案内で、私はコチアの本部へ行き、下元と会った。挨拶したが、専務理事というようなイメージではなく(イモ親父だな)と思った。それからしばらくして、コチアの農村青年男女講習会があると知ったので参加してみた。そこで親父の〃組合節〃つまりコペラチズムの熱弁を聞いたが、ピンと来なかった。翌年、サンパウロに出て、コチアで働き始めた。その内、ポスト・デ・ガゾリーナ(ガソリンの配給所)へ回された。
その頃、下元の親父は毎朝、本部の事務所の入り口で、幹部連中とその日の仕事の打ち合わせをしていた。煙草をふかしながら、八時の始業の合図の笛が鳴るまで……。この打ち合わせの前、親父は自分の車を運転して給油のため、私が居るポストへ来た。
その時刻ここには、地方の各部落=地域=から、組合員の出荷物を毎日運んでくるモトリスタ=運転手=たちが来ていた。彼らは、出荷物を降ろした後、給油して、肥料や農薬などを積んで、それぞれの地域へ帰る。その給油のとき、数が多いのでフィーラ=列=をつくる。
親父は、私の所へ来て『何処そこのモトリスタは来ていないか?』と聞く。私がフィーラの中に居るそのモトリスタの所へ案内すると、彼が来た地域の様子を聞く。霜、セッカ=日照り=、道、橋の具合……。霜なら『バナナの葉が、どの程度焼けていたか、地面の草の状態はどうだったか』という様に具体的に聞く。
つまり地方の情報を、組合員の居る地域単位に一番下の従業員から、とっていた。その上で、情報の不足部分を、その地域へ問い合わせていた。地域々々の情報を実によく知っていたので、職員の中には『親父から何か聞かれると、震えが来る』と言うものまでいた。
自分の下元観は、この頃から変わった。
二十五、六歳の頃、仕事のことで上司と喧嘩した。辞めるつもりで顔色を変えて歩いていると、親父と出会った。わけを聞くので話すと、
『お前の言う通りだとすると、お前が正しい。もう一度(上司と)話してみろ。それでも駄目なら、俺が話す』と。結局、自分の意見が通った。この時が私の人生の転機になった。組合を辞められなくなった。同じようなことが、もう一度あった。親父は机を叩いて上司を説得してくれた。
私は親父の魅力に取り付かれた」
モジで鶴我博文という力行会の戦後移民から聞いた話だが、
「下元さんが生きていた頃、配耕先を逃げ出したコチア青年が、ピニェーロスの組合本部の近くのペンソンに集まって泊まっていた。その連中が毎朝、組合の入り口の所で、出勤して来る下元さんや山中弘移民課長を掴まえて『日本で聞いた話と現実が違う』と吊るし上げた。
これに、下元は、
『三十年後に来い。そのときワシが間違っていたら手をついて謝る。努力もしないで僅か数カ月で文句を言うな』と答えていた。そのコチア青年は、後で『下元さんの言ったことは正しかった』と述懐していた」
(つづく)