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高岡専太郎の生涯調査――秋田県から親族、本出版へ=繁栄する一族=玄孫まで集まれば50人余=呼びかけ、ルーツ忘れまじ

ニッケイ新聞 2007年11月09日付け

 高岡一族のルーツを辿る――。ブラジルで日本人初の医師となり、その生涯をコロニアに捧げた、予防医学の権威、高岡専太郎(一八八五―一九六三年)。同氏の人生を記録に残すためにと、専太郎の故郷、秋田県から高岡家の親族にあたる押切宗平さんが来伯。五日、押切さんを囲んで、ブラジル側の高岡一族の家族会合がサンパウロ市内のパーティー会場で開かれた。一族の直系は、実業界および医者の家系として成功し、末広がりに繁栄している。押切さんは、一六〇〇年代から始まる家系を掘り起こし、専太郎の日本での生活、渡伯、コロニアでの活躍を本にまとめて出版したいと意気込んでいる。
 高岡専太郎の渡伯は一九一七年。日本の大学で薬学と医学を修め、二四年には政府から資格を取得して、ブラジルで初めて日本人医師となった。
 氏は移民の健康を危惧してファゼンダを訪ね歩き、患者の治療に献身。二六年に、現サンタクルス病院の起源である「同仁会」を組織し、三七年には体の構造、ブラジルの病気、治療法や予防法を記した「ブラジルの家庭医書」を著している。同書は当時、移住者のどの家庭でも所持していたというほどに重宝したそうだ。
 白装束にカツラをかぶり、刀、手傘を持って登場した押切さんは「専太郎は父親から『人のために生きろ』と言われて育った」とその幼少期を紹介。二年間かけて調べてきた、一九六〇年からの一家の歴史や専太郎の生い立ちを説明した。
 専太郎は、医学分野のみならず、日系芸術家の育成、日本文化の普及にも尽力。六三年に七十八歳でこの世を去っている。
 今回の会合を企画した氏の孫のマルセロさんは、「(秋田国体の訪日団で)日本へ行ったときに、どれだけ多くの人が祖父、専太郎を慕っているかを認識されられた」と感動を話し、「ぜひ一族のルーツを家族皆に知って欲しかった」。
 家族の会合には約五十五人が参加。マルセロさんは「日系コロニアは祖父のことを覚えてくれている」と嬉しそうに語りかけ、「我々の家族は困難を乗り越えてきた。人生の教訓として心に刻んでおこう」と呼びかけた。
 現在、ブラジル側の高岡家の家系には、専太郎の子四人、孫十四人、曾孫二十七人、玄孫二人の計四十七人が名を連ねている。
 押切さんは、十月三十一日から今月二十日までの滞在中に、移民にゆかりの深いサントス港、サンタクルス病院、平野植民地、モジのコクエーラにある「タカオカ・センタロ校」などをまわり、ブラジルでの同氏の生涯について資料収集を進める。