ニッケイ新聞 2007年11月20日付け
杉村の足跡を残し、その功績を称えようとする活動は、有志らによって進められている。その一つが歴史資料の収集と検証だ。
FDPは、日本で孫の新さんから入手した資料をもとに、今年三月、リオデジャネイロから約七十キロのペトロポリスを訪れた。同地に設置されていた初代在ブラジル日本公使館跡の現状を見るためだ。
杉村が日本へ送った絵葉書は、公使館向い側の山腹から撮影されたもので、公使館の位置について杉村の解説が付されている。
「朱点ノ下ハ帝国公使館ナリ白ク細ク高キ建物ハ◆◆ノ◆◆寺院ナリ公使館ハ林木ニカクレテ見エズ」(◆は解読不能文字)。
野崎さん、佐藤さんは、ペトロポリス在住で郷土史を研究している安見清、道子夫妻の案内で跡地へ向かった。夫妻は、新さんと連絡をとりながら跡地を探り当てることに、二年の歳月を費やしてきている。
「こんな異国の地で三人の娘を抱えて、夫に先立たれたヨシ夫人がかわいそうで。どんな思いだったか」と道子さんは、研究への思いを話した。
公使館跡は、現在は住宅。四人は、起伏のある街中を上り、好天の下歩き回った。その後、絵葉書と同じ(場所の)映像を撮影しようと、再び山中の散策へ。「雑草、草木がすごくて。ナタを持って行かなかったから、草を掻き分けて進んだよ」と佐藤さんは振り返った。
リオに比べて、海抜八百四十メートルと比較的涼しい場所にあるペトロポリス。当時のリオは黄熱病が猛威を振るっていたことと、帝政時代、夏の暑い時期は皇帝、政府高官らがペトロポリスで政治を執っていたために、日本はじめ十九カ国の大使館、公使館が同地にあった。
「(公館跡を訪ねたことで)映像が残るし、資料も結構集めて読んだよ」。野崎さんらが撮影した映像は、笠戸丸移民の子孫らを追ったものとともに、移民史を語る一本の作品になる。
そして、もう一つ。杉村の足跡を辿る活動で進んでいるのは、現在もリオに残る同氏の墓碑改修計画だ。
盛岡出身の同氏を称え、岩手県人会が、来年の日本移民百周年、県人会創立五十周年の記念事業として、数年前に案を出した。
九八年に鹿田明義リオ日伯文化体育連盟理事長が、個人で改修費を支出して、大きくひび割れていた墓石を改築し、いつも綺麗に掃除されているが、「今のは後壁もないので名前もわかりにくいし、公使のお墓にしては淋しいでしょう」と千田昿暁会長。
遺族の了解をとって、現在の低い墓石を高くし、後壁をつける。ポルトガル語と日本語で墓碑銘を彫り、杉村の顔写真を飾る。「彫るのに六カ月かかるっていうんですよ。準備していかないと」と、千田会長は、計画が進んでいることを嬉しそうに話した。
「日本の(杉村の)家族も親戚に呼びかけて協力してくれるようで、こっち側でもこれからですよ」。
杉村がこの世を去って、すでに百年以上が経過している。日本移民百周年を迎える日系社会から、同氏の功績にようやく、再び光が当てられだした。おわり
杉村濬の史実発掘――足跡追ったFDP=連載(上)=日本移民導入に尽力=笠戸丸を見ずに他界
杉村濬の史実発掘――足跡追ったFDP=連載(中)=カナダでの日本人冷遇に悲観=ブラジルへの傾斜強める