ニッケイ新聞 2007年12月13日付け
赤木数成さん(元パウリスタ新聞記者)が、このほど、三十年ぶりにセラード地帯のサン・ゴタルドを見てきた。まったく別の土地を見ているようだったという。それほど変貌ぶりは想像を越えていた。日系農業者たちの充実は「ブラジルにおいて日系人の農業従事は終わった」とする一部の議論をかき消している。コチア産組、南伯農協消滅の悪影響などみじんも感じられなかった。そこには人工衛星に支えられる最新のIT技術を駆使した大型農業が、みごとに〃開花〃していた。以下は、旧コチア産組の一方の指導者「小笠原一二三さんの情熱の実り」を目の当りにしたリポートである。
この十一月末に、郷土熊本の、熊本日日新聞の記者と同行して、三十年前にセラード開発の中心地であったミナス州サン・ゴタルドを訪問してみて、その変貌に驚嘆した。かつて、タダでも、もらい手がなかった不毛に近いセラードの荒野が、日系人によって、ブラジルのモデルとなる穀倉地帯へ、見事に変貌していた。また、ここにはコチア産組が、名前を変えて、隆盛を極めており、コチア、南伯、南銀を失ったと、失望している日系社会に、この頼もしさを、ぜひ伝えたい気持ちを抑えることができなくなった。過去のエピソードを交えながら、実情を報告する。
コチアの努力が見事に開花
サンパウロ市から、リベイロン・プレットを経て、ミナス州境まで、豊かな地味をしのばせる砂糖キビ畑が、数百キロ続いている。
ミナスに入ると、ウベラーバを中心として三角ミナスと言われるこの地帯は、州内でも、最も地味が肥えている。昔から牧畜、穀倉地帯として栄えてきた。三十年前までは、この三角ミナスを囲うように隣接して、州の北東からゴイアス州へ、不毛に近いセラードが広がっていて、三角ミナスの豊かさと、荒涼としたセラードの貧困が隣あわせになっていた。
現在は、カンピーナスを過ぎると、砂糖キビ畑が主体となり、三角ミナスまで、数百キロも砂糖キビに支配されており、かっての穀倉地帯の面影はなくなっている。砂糖キビに占領されたような三角ミナスを抜けて、昔のセラード地帯に入ると、状況は一変して、見渡す限りの広大な農耕地が出現した。
芽吹き始めた大豆、旺盛な成長を見せるトウモロコシ、一目で高い生産力を知ることができる見事なコーヒー園……昔のセラードを知る人は、誰しもその変貌に、驚くに違いない。
地平線まで広がる巨大な耕地には、大型トラクターや、長さ六百メートルもある中央制御散水機(ピヴォ・セントラル)が、あちこちにみられ、ブラジルでは、最先端の近代的灌漑農業を、出現させていた。農産組合施設には、巨大なサイロが林立し、生産資材や産物を満載した大型トラックの往来が激しい。視野に広がるすべてが、地域の強い生産力として、肌身に突き刺さるように感じる。
コチア産業組合が、セラード開発に乗り出した一九七二年から、その動向を見守っていた筆者は、一九七七年に、この地域を訪問して、開発当初の地域の実情を見ていただけに、ただ「見事だ。コチアの将来を見る眼は、すごかった」と、感服するのみだった。
そして、七〇年代初頭に、セラードの潜在性を見抜き、ここに、我が子をただ一人送りこんで、セラード開発の手本をつくり、やがてコチアにセラード開発を実行させた北パラナの小笠原一二三(おがさわらひふみ)という人物に思いを馳せ、もし、小笠原さんが生きていて、この現状を見たら、なんと言うだろうかと、遠い日の思いにひたった。
セラード開発は、コチア産組北パラナのリーダーであった小笠原という一人の人物の決意によって始まり、その成果を見たコチアが、組合の方針として、ミナス州サン・ゴタルドで実行し、その実績を見て、ブラジル政府が国家政策として、セラード開発計画(ポロセントロ)を実施したものである。(続く)