ニッケイ新聞 2007年12月27日付け
ニッケイ新聞は、今回の寄贈に際し、上塚司の孫にあたる芳郎氏にコメントを依頼、祖父司はもとより、その従兄弟にあたる周平とのエピソード、五回のアマゾン訪問での思い出などを綴ってもらった。ほぼ全文を掲載する。
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私は今まで五回ほどブラジルを訪問したことがあります。一九九八年に訪問したのが最初だったと思いますが、そのときサンパウロで秋山桃水さん(高拓一回生)に会いました。
当時はまだお元気でサンパウロの東京三菱銀行の顧問をされていました。祖父の上塚司の話などを交えて楽しく談笑しました。その足でベレン在住の安井宇宙さん(高拓三回生)の家に二、三日、泊めてもらったのが良い思い出です。
安井さんは絵描きでもあり、若い頃アマゾンで経験した風景を描いた絵がたくさん二階のアトリエに飾ってありました。はるか昔のことなのに、彼の頭の中ではつい先日のことのように風景が広がっていたのでしょう。
以来、〇一年に高拓生アマゾン到着七十周年をマナウスで祝ったときや、〇六年七十五周年をパリンチンスで祝った時などに訪問しております。
特に昨年の秋は、ヴァイクラッパを遡り、高拓生が入植したアンジラのそばまで船で行くことができて何ともいえない感にうたれました。
祖父の上塚司は、七八年の十月に亡くなりましたが、それは私が二十六歳のときでした。したがって、司から私は多くのアマゾンのことを聞いてはいましたが、実際に訪問してみると本当に百聞は一見にしかずでした。
〇八年はブラジル移民百周年です。上塚司のアマゾンにおける仕事は、残念ながらあまり知られていませんので、この際移民史料館に写真を寄贈してその歴史を残したいと思ったからです。
上塚司は、笠戸丸に乗船して、第一回移民とともにサントスに着いた上塚周平の従兄弟です。年齢は一回りほど周平のほうが上です。
二人とも熊本県市下益城郡杉上村大字赤見に生まれました。司はやがて神戸高商に進み、そこで周平の乗った笠戸丸が岸壁を離れるのを見ています。卒業後は満鉄調査部に就職しましたが、大正四年に一時帰国していた周平と赤見の実家で対面しています。
司は周平に向かって「ブラジルに行って、あなたのもとで支配人をやりたい」と言いましたが、周平は「あんたが来てくれたら助かるが、せっかく満州へ就職したのだからしばらくはそちらでやるのがよいだろう」と返答したと言われています。
その後、司は政治家高橋是清の秘書をやるかたわら、自分も熊本選出の衆議院議員となりました。
二八年、念願のブラジル国アマゾンにおける山西コンセッションと呼ばれた百万ヘクタールの権利を受け継ぎアマゾンに橋頭堡を築きました。三〇年、日本高等拓植学校の前身である国士舘高等拓殖学校を設立、この校舎は神奈川県の生田にあり、現在建物は残っておりませんが明治大学生田校舎になっています。
この日本高等拓植学校の写真が今回寄贈した写真の中にあります。実は、私の家にはずっと生田の日本高等拓植学校の全景が描かれた油絵がかけてあり、司が生前大切にしていました。 この校舎で一年勉強した後、アマゾンに行きヴィラ・アマゾニアの現地実習施設で一年過ごす教育過程になっていました。ヴィラ・アマゾニアの山焼きの写真もあります。
当時、ヴィラ・アマゾニアの中心に実習施設やら、アマゾニア産業研究所、病院、日本風建築の八紘会館などの多くの施設が建てられていたのでした。ヴィラ・アマゾニアには、私も何度か訪れていますが、まさに「兵どもの夢のあと」で、現在は何も残っていません。
司の思いは、四一年に始まった第二次世界大戦により、まったく破壊されてしまいましたが、かなりの数の高拓生たちが戦後もアマゾン河流域に残り、その子孫は高等教育を受けりっぱに育ったことで、司の気持ちもいくらか晴れたことと思います。