ニッケイ新聞 2007年12月28日付け
小笠原たかしが、一九七一年に単身セラードへ出発してから後の五年間は、小笠原一族はもとより、コチア産組、ミナス州政府、連邦政府にとって、まさに二億ヘクタールを舞台とする壮大な大河ドラマが演じられた。
過去のことではあるが、百年の日系移住歴の中で、おそらくブラジルの日系社会が二度と経験することのない、息詰まるような日系農業関係者の晴れ舞台が演じられたことを、改めてここで日系社会に報告するために、当時の事情をここに再現する。
コチアとしてセラードに出るべきか、やめるべきか議論している最中に、セラード地帯では、コチア誘致に万全の支援を図る住民決起大会が開かれた。当時の井上ゼルバジオ会長は、ミナス州の地方住民が嘆願書を送ってきたために、ミナス州知事を訪ねて「セラード地帯で、こんな動きが起こっている。コチアとして、開発に出た場合、ミナス州政府は支援する可能性があるか」と尋ねてみた。応対に出たのはアリソン・パウリネリ農務長官だった。
彼はこの後、コチアのセラード開発のお陰で、ガイゼル政権の農務大臣に抜擢されるのであるが、コチアからセラード開発の話を聞いたとたん、目の色を変えた。ミナス州にとっては、ブラジル人の力では絶対に太刀打ちできない広大なセラード高原は、疫病神に等しい存在だった。ここに、コチアが出てくれるなら、これはミナス州にとって歴史的に記録される幸運である、と長官はトッサに判断し、即時電話でロンドン・パシェコ知事に伝えた。
知事も、事の重大さを悟って、「即時ミナス州の全長官を召集するから、ゼルバジオ会長を絶対に帰さないよう農務局に何としても引き止めておけ」と命令した。州にとっては、知事が考えたとおり、ゼルバジオ会長の訪問は、想像以上の幸運だった。当時のコチアは、農業の神様と言われた日系農業者を背景に、ブラジル政府にまで「農業のことならコチアに相談したほうがいい」といわせるほど評価されていた。
そのコチアの会長が自分からミナスに来た。知事は緊急招集した長官会議で「今日はミナス州にとって、歴史的に重要な日と成った。コチアがミナス高原開発に協力したい意向を伝えてきた。自分は州にとって画期的な出来事と判断し、州は全面的に支援することをここで決定する。そして、今後の開発に当たって、コチアが提出してくるであろう条件を、ミナスは無条件で一切を受け入れる」と、一人で決定してしまった。
また、支援手段として、金融は州開発銀行、行政は農務局、プロジェクト推進は農業開発公社であるルラール・ミナスが担当すると、一気に方針を発表した。コチアとしては、まだ、ミナス州政府への打診段階であったが、ゼルバジオ会長は、ミナス州政府の期待に圧倒され、ミナスがいかに日系人農家とコチアを高く評価しているかを改めて理解し、責任の重大さを感じた、と述懐した。 (続く)
「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(1)=小笠原一二三さんの先見の明=驚嘆させられる変貌
「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(2)=100年前の農地再生され、今は穀倉地帯、なお余裕
「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(3)=人工衛星コントロール方式=究極まで生産性を追求=人工衛星操作でトラクターを運転
「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(4)=30数家族で「生産株式会社」組織=資材、機械一括購入、労働力も〃共有〃=農家が作る生産株式会社
「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(5)=パルナイバ上流農畜産組合の建物=〃昔の泥臭さ〃が消えた=名前を変えたコチア組合
「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(6)=日本人は気が狂っている?=入植時、地元住民の見方=「開拓は失敗必至」
「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」=(7)=産組が開拓に動く前に=長男を〃先遣〃した小笠原さん=日系人がすべてを好転させた
「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」=連載(8)=技師の調査報告=一世、二世で分かれる=開発危ぶんだ産組理事たち=コチアの英断