ニッケイ新聞 2008年1月11日付け
「移民資料の移管か返還を」――。一九八〇年代にあった広島市の博物館建設計画に対し、資料を寄贈したブラジル在住の十二人が寄贈資料の移管もしくは返還を求める要請書を昨年十一月二十六日、秋葉忠利広島市長宛に送っていることがニッケイ新聞の取材で分かった。北南米で多くの移民資料が集められたが同計画は頓挫。〇六年に開設された「広島市デジタル移民博物館」も歴史誤認や記述ミスが目立ち、一時閉鎖するなど場当たり的な対応が批判されていた。当時、広島県人会の幹部で収集活動に尽力した清谷益次さん(91、サンパウロ市在住)は、「正直呆れている。何をやっているのやら」と古里への複雑な思いを話し、ため息をついた。
移民を多く送り出した広島市は、八〇年代に博物館建設を計画、カナダ、米国(ハワイ含む)、ペルー、ブラジルに職員を派遣、広島ゆかりの四百四十二人(団体含む)から約四千点の資料(ブラジル関係は八十四人から千四百点)を収集した。
その後、建設予定地にあった施設の移転が難航、九八年、市は財政難を理由に計画を凍結した。
以降、ときおり公開される以外には、日の目を見ない〃死蔵〃状態が続く。重なる資料の移転、担当部署も変わり、整理体系があいまいとなった。
そんななか、〇六年二月、国際協力機構(JICA)の協力により「広島市デジタル移民博物館」を開設、インターネット上で資料公開を開始した。
しかし、サイト内に多くの間違いがあることが発覚、地元中国新聞が紙面で市の歴史認識の甘さを厳しく指摘(本紙は二十二日に報道)したことから、同サイトは、わずか四十日で閉鎖した。
その後、本紙の取材に当時の文化担当は、「寄贈者に確認をとり復旧に務めたい」と説明、〇六年十月に住所が分からない十九人を除く約六十五人(団体含む)の寄贈者へ調査票を郵送、確認作業を行なったが、戻ってきたのはわずか十五人。その状況のなか、昨年五月十日、同博物館内のブラジルコーナーが再開されている。
「送られてきた調査表には、『寄贈した写真などの説明は以前きちんとしてある』と書いて、返送しました」と清谷さんは、半ば愛想をつかした口調で話す。
「資料を活かす気持ちがあるのなら、私たち移民に縁故のある旧神戸移住センターに寄贈してもらえれば。(広島市の対応は)情けない状態。ちゃんとやってほしい」と注文をつけた。
事情を知り、ブラジル側で調査協力した県人会関係者は、「十人の連絡先が分かったが、寄贈者のほとんどが鬼籍に入っており、電話も分からない状態。家族らはもう関心もない様子」と各地方に問い合わせた感想をもらす。
「今年ブラジルは移民百周年。移民資料を二百周年の時まで置いておくつもりなのか」と眉を顰める。
八〇年に九十三歳で亡くなった父雪登さんがつけた三十年分の日記を寄贈した清水八起さん(77、サンパウロ州アサイ在住)は、子孫に伝えるため、現在家族の歴史をまとめようとしているところだという。
「父がブラジルでの人生をどう辿ってきたのかを知りたい。博物館も出来なかったし、日記を返してもらえればあり難い」と言葉少なに話した。
同博物館を運営する市民局文化スポーツ部の足羽真一文化担当課長は、ニッケイ新聞の電話取材に「市長と相談したうえで、資料の活用状況や引き続き市で管理したい意向を説明した返答書を作成した。現在ポルトガル語に翻訳中。一月中には郵送できるのでは」と話す。
同課長によれば、ブラジル関係資料の貸し出し件数は、〇六年度五件、昨年度は九件だという。
「今年四月に県、市などの共催で行なわれる『ブラジル移民100年展』でも活用、日伯交流年を踏まえた貸し出しも増えるのでは」したうえで、「決して死蔵とは考えていないが、返却を希望される方には対応したい」との考えを示した。
移管に関しては、JICA横浜や旧神戸移住センターにも問い合わせた結果、「受け入れ状況にない」と返答があったことを明かし、「三名の担当が今後も作業にあたる」とこれからの管理体制に関しても言及している。