ニッケイ新聞 2008年1月19日付け
「あなた日本から来た一世なの」―。元旦午前、父親といっしょに市内のブラジル人の店にシュラスコの食材を買いに行った際、店で会った地元の日系人夫婦にそう質問をうけた。一世の若者は珍しいといった感じだ。
この言葉を聞いて、日系三世の知人が学生時代にアサイで交流した日本の若者たちとの話を思い出した。知人は交流にあたり、「初めて〃本物の日本人〃と会うね」と友人と話したという。裏返すと、私たちは日本人だけど、どこか彼らと違う本物ではない、といった負い目に似た意識があったのだろうか。
帰り際、パラナ州政府が支援して造成している市内の公共分譲住宅群(カーザ・ポプラール)に案内してもらった。道は未舗装で、BARもない。ただ緩やかな丘にあるため、アサイの街を遠く眺めることができた。
その一つに入居していた知人の同級生だったブラジル人女性に尋ねると、毎月二百三十レアルを二十年間支払う約束という。家の譲渡や売却は知人や家族にもできない約束らしい。居間と二部屋ほどの寝室があった。これらの住宅の中には毎月九十レアルで入居できる者もあるようだ。そのため入居希望者も多く、くじ引きで抽選、どの家に割り当てられるかは運任せなところもあるもいっていた。
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相変わらず暑い。元旦の昼食には春雨のサラダや雑煮などと一緒に、シュラスコが食卓に並んだ。夕食にはマグロとチラピアの刺身、煮しめ、雑煮などの日本食がずらり。一家の食事メニューは日伯混合が基本だ。大きな取り皿一枚に取り分けて食べるのはブラジル式だった。汗を浮かべて雑煮を食べた後、アサイ産の甘くて美味しいオレンジを食べた。アサイでオレンジがとれるようになったのはごく最近のことらしい。
この日、日本にいる一家の長男から電話がかかってきた。家族それぞれが代わり代わりに受話器をとり、「元気にやっているのか」と近況を尋ねていた。午後は父親とその弟、親戚の男性とで麻雀をしようと誘われた。結局、麻雀はしなかったが、女性陣からは「家族が集まっているのに男たちで麻雀なんて」との声もあった。
知人は父方から見れば、三世で、男二人、女二人の四人兄弟。アサイに残っているのは父親とともに商店を経営するデカセギ帰りの弟夫妻、そして母親と祖父母だ。
一家が経営する商店は、父親の亡母が始めた店を引き継いだもの。その母は商才があり、貯めたお金でBARを買い取り、糸とボタンを売る商売をはじめ、品物を増やして店を大きくした。その後父親が引継ぎ、将来的には、その息子夫婦に店をまかせる意向らしい。
六十代の父親はアサイで生まれ、育ち、今も暮らしている。話によると、七〇年代後半ごろまでアサイには日系の映画館があったという。この地に暮らす日本人にとって日本の映画は郷愁そのものだったはずだ。
「その映画館が無くなったころはね、一世の六十代くらいの日本人がまだ元気な時だったよ。それでとにかくみんな日本のものを欲しがった。その子どもたちだって同じだったかな」。
父親はこのころから、サンパウロでも流行りだしていたカラオケ練習用のテープや、日本のテレビ番組を録画したビデオのレンタルサービスを、周りに先駆けてはじめた。すると狙いは大当たり。
「毎日五、六本ビデオテープを借りては返しにくる日本人家族がたくさんいてね。番組のなかのコマーシャルだって早送りにしないで、全部観るくらい夢中だったらしいよ」。子ども達はそのテープなどで、日本の流行や言葉を自然と覚えたという。(つづく)
北パラナ、アサイ市の〃日本人家族〃を訪ねて(1)=二世、三世が「日系」と言わない=ごく普通に「日本人」と表現
北パラナ、アサイ市の〃日本人家族〃を訪ねて(2)=食後「ごちそうさま」に対して=「お粗末さま」と主婦の答え