ニッケイ新聞 2008年1月24日付け
一月二十二日が何の日かと聞かれて、ポルトガル王室を乗せた船団がブラジルに上陸した日と答える人はよほどの歴史好き。一八二二年のブラジル独立と大きな関係を持つドン・ジョアン六世たちのブラジル上陸(一八〇八年)からちょうど二〇〇年の二十二日、バイア州で記念行事が持たれた。
二十三日のフォーリャ紙によれば、州知事や海軍大将らも出席する中、一九世紀初頭の服装で身をかためた海軍小銃兵の一隊が一一隻の船に乗り込み、サルバドール港から出発。トードス・オス・サントス湾内を七キロ航行したという。
一一隻の船のうち一隻は、一九世紀の船舶を模ったレプリカ。船内はもちろん最新整備だが、白鳥号と命名された船には、小銃兵と共に、六四名の乗務員と六〇人の招待客も乗り込んだ。また、警察の調べでは、船のパレードを見るために集まった人は約五〇〇〇人だったという。
また、この船のパレードのほかに、二十二日には記念切手も発行された。二枚またはそれ以上の枚数にわたって、描かれた絵は、上陸したドン・ジョアン六世らを船と港を背景に描いたもの。当時バイアに上陸した人数は一〇五四人という。
このポルトガル王室の来伯は、一八〇七年に西仏間でポルトガルの分割占領を決めた条約が締結され、ナポレオン配下の軍がイベリア半島に進出したため。王室一家は十一月二十九日、イギリス海軍の護衛の下でブラジルに亡命し、翌三十日にナポレオン軍がリスボンに入った。
五四日間の旅の後、バイア州に到着したドン・ジョアン六世は、女王マリア一世に代わる摂政となり、上陸直後の二十八日に「すべての友好的な国との通商を指揮するためにブラジルの港を開く」と発表、ブラジル領内の主要港湾が開港された。また、二月にはバイア陸軍病院付設の医科大学(ブラジル初)が創設された。
間もなくドン・ジョアン六世はリオに移り、宮廷開設、ブラジル統治となるが、一八二一年に皇太子に、「ブラジルがポルトガルから分かれることになったら、自分の力で王位に就け」と言い残して帰国。この皇太子がブラジル独立を宣言したドン・ペドロ一世である。
なお、ブラジルの独立と文化、独自性を覚えるために二〇〇年前の出来事の重要性を訴えようと発行された記念切手は、初刷で百万枚発行、一枚二レアル。