ニッケイ新聞 2008年2月12日付け
五十年祭と百年祭の決定的な違いは、語り部がいなくなったことだな――。サンパウロ市四百年祭からサンパウロ文化協会創立にいたる戦後コロニア再生の現場を踏んだ本永群起さん(76、熊本県出身)=サンパウロ州マイリポラン在住=に、勝ち組と負け組の会同士に手打ちしてもらうために一千カ所も地方を回った経験、文協創立当初の秘話、百周年と当時との比較や、集金方法の違い、山本喜誉司(東山企業総支配人)初代文協会長の興味深い側面、などを聞いてみた。
「勝ち組負け組1つになるようお願い」
――一九五四年にサンパウロ市創立四百年祭協力会、五八年に移民五十年祭だった。つまり四百年祭協力会の流れが、のちのサンパウロ日本文化協会(現在のブラジル日本文化福祉協会)創立につながった。本永さんは一九五八年の五十年祭の下準備で、勝ち組と負け組に二分していた地方の日本人植民地をまわって、統一した組織を作るように説得してまわったと『文協四十年史』に「文協裏面史」として書かれていますが。
本永▼五十年祭委員会の仕事で地方まわったよ。全部だよ。一千を超すだろうよ。二年半をかけて。
まとまってるとこはまとまってたんだよ。でも、まとまってないところがたくさんあった。ヘタな猟師も数う撃ちゃ当たる、虚仮(こけ)の一念で何べんもいったよ。五六年ごろだ。
日本人は会つくるの好きだろ。コロニアは全部田舎にいたんだから、あの頃は。会作ったら、勝ち組と負け組は一緒にならない。なかには中間派っていうのもあって、三つぐらいあるところまであった。それを一つにまとまってもらうようにおねがいしてした。
――組織化にこだわったのはどうしてですか。
本永▼バラバラにならないで組織作ったら、奉加帳が回しやすいだろう。よそが一本化したとなれば、あの人たちはそこの地域だけでなく、勝ち組どおしとかの横のつながりがあるんだよ。あっちがやったんだから、こっちもみたいになる。それを説得するんだ。
それを上から説得すると反発される。だから俺みたいなへなちょこが行く。肩書きは日本移民五〇年祭委員会事務局次長だよ。その時、二十六、二十七歳だったろうね。
――山本喜誉司さんから一筆書いてもらって行ったんですか。
本永▼違う。お墨付きもっていったら、かえってうまくいかない。
地方の代表者はみんな五十歳、六十歳だった。でも、みんなビシャって閉めるんじゃなくて、話はしてくれた。戦前の人たちは懐深くて、みんな苦労人だったよ。
でもね、簡単にはうんとはいわないよ。
――やっぱり酒飲みながら、じっくり話をするんですか。
本永▼まあ、臨機応変でね。今日は一晩泊めてくれませんか、というんだ。すると、出て行けとはいわない。じゃあ、って良い部屋に泊めてくれるんだ。一晩過ぎると人間ってのは変わるんだな。
――けんもほろろだった人が、あいさつぐらいするようになる?
本永▼そう、そう、そう。おはようございますって、朝飯でも一緒にくうとね。で、考え直してくれ、なんていうとだめなんだ。何にも言わない。で、また行くんだ。
――五十年祭で実態調査もやったんですよね。
本永▼実態調査するにも、組織がなくては調査も出来ない。だから、地方に組織を作ることが全ての最初だった。
――当時の思い出深い話を教えてください。例えば、プロミッソンにも行かれたんですか?
本永▼ああ、大日本帝国、神州不滅っていう一家がいたな。
あそこでおれは、教育勅語を書かされたよ。ぬしゃ、ニセモノかって。
――なんのニセモノなんですか?
本永▼五十年祭委員会のニセモノ。それで「教育勅語をしっちょるか」っていうんだ。
「失礼じゃないか。紙もってこいって」っていってやった。紙と鉛筆を持ってきたから、「教育勅語をば、鉛筆で書けるか」とどなった。
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト」って書きはじめた。おりゃ、きちっと楷書で書くんだ。それも、筆の真ん中をにぎって書くんだ。筆はまんなかよりちょっと上をね。
かきはじめたら、途中で「もうよか!」っていうんだ(笑)。こういうのは、口でしゃべっちゃダメなんだ。だまって書くんだ。
負け組のほうはどうでもいい。一番困るのは勝ち組。勝ち組のところいったら、何言われるか分からない。だから、勉強していったよ。
「語り部がいなくなった」
――百年祭と五十年祭の最大の違いは何ですか。
本永▼あれからもう五十年たったか。百周年では語り部がいない。五十年祭の頃は笠戸丸で来た人が生きていたし、それ以前、〃神代の時代〃に来た人も現役で生きていた。後藤武夫(藤崎商会の調査団として一九〇六年に来伯)、安田良一(隈部三郎の同行者として一九〇六年に渡航、安田ファビオ商工大臣の父)とかがまだ、しゃべってくれた。
笠戸丸で来たときに二十歳だったら、七十歳だ。歯医者の金城山戸(やまと、初めての歯科医)、茨城友次郎(本門佛立宗ブラジル開教の師、笠戸丸移民)、「移民の父」上塚周平と共に生活をしていたプロミッソンの間崎三三一(まさき・ささいち)さんたちの話を聞けたんだ。ああだった、こうだったって理路整然としていた。
でも、五十年というのは早いね。五十年祭の語り部の話をきいてね、う~っと思ってね、その語り部の話を五十年後の話をいましている。こりゃ、感無量だぜ。
――移住体験が遠くなったということですか。
本永▼まあ、その点では百年史は無味乾燥な文章を集めるしかないだろう。
「あの頃本物のパトロンがいた」
――ほかに違いはありますか。
本永▼百年祭との決定的な違いはお金だよ。五十年祭はお金が集まったんだ。パトロンがいたんだよ、コロニアに。個人と企業のパトロンがいた。南銀、東山を中心にしてポプラールとか日系の銀行があった。日系の銀行だけで十ぐらいあった。
銀行らしい形そなえていたのは、南銀、東山、ポルラウ銀行だったな。
そのほか組合ならコチア、南伯、中央、バンデイランテいろいろあった。マウア、モジ、産業組合花盛りよ。
地方には親分みたいのが、ファゼンデイロがいた。コルネリオ・プロコピオの宮本邦弘(一万六千アルケールの土地を所有するファゼンデイロだった)とか、一つ一つの町には貧者の一灯の一千人分ぐらい出す人が必ずいたんだよ。
地方が全部組織作って会ができて、そこに奉加帳を回すと、貧者の一灯をみんなあつめてくれたんだ。だから、当時のコロニアの人たちはおそらく六割から七割が出してくれた。
その上に、貧者の万灯みたいのが何人もいて、その上に企業もいたから、かなり集まったんだよ。
奉加帳を見て、南銀がいくら、コチアがいくら出したというのを見て、みんなそれぞれが自分の金額を決めた。だからやりやすかった。
――洗濯屋の存在も大きかったと聞きますが。
本永▼洗濯屋もかなりかんばった。パウリスタとサンパウロと二つに分かれて、それぞれ何千人。いつもケンカばかりしていたがな(笑)。そのボスが平井格次だった。
――その他、百年祭との違いはありますか。
本永▼文協(文化センター)たてて、ジュケリーの精神病院を建てただけで、箱物はやらなかった。五十年祭では文化センターの定礎式やっただけ。
――文化センターの土地は大正小学校があったところですよね。
本永▼大正小学校は立派な学校だった。ピラチニンガ小学校(ブラジル籍の二世を代表にして没収を免れた)に名前を変えて、敵性財産として没収されるのを免れた。その土地をコロニアに戻してもらって、コロニアの中心の建物たてるのに、いろいろグチュグチャあったけど、表面上はうまくできたから良かったよ。
――最後まで坂田さんが抵抗されたとか。
本永▼あそこ最後までやっていた坂田さんというのには、へこたれたけどね。取り上げられないための苦労は相当あったと思う。時代が時代だから、はいどうぞ、お使いくださいとはいかない。
坂田さんは学校続けたかった。人情としてはいどうぞ、ってわけにはいかない。
ほかに適当な土地はなかったし。元々総領事館が出した土地、大正小学校は公の土地だから。
(この会は、サンパウロ新聞社取締役営業部長・中野晃治さんが企画し、邦字紙OBの田中光義さん、田中慎二さんにくわえ、現役の同紙社会面デスクの田中敬吾さん、人文研理事の鈴木正威さんも参加した)
山本喜誉司の実像に迫る=「一国一城の主達を束ねた」=「毛並みが違う〃大政治家〃」
――山本さんはどんな方だったんですか。
本永▼地方から帰ってくると、山本さんの家で上手いモノ食わせてくれるんだ。山本さんがとっておきのウイスキーを出してくれる。田舎でピンガばっかり飲んでたからな(笑)。そして、なんにも言わないんだ。
ただね、ここはああだったとか、こうだったとか話すんだ。やっぱり、そうかってんだ。すると、もっさんや、あと一カ月したら、ころっとかわるっていうだ。おまえもそんなに苦労せんでも良いようになるっていうだ。
なにかと思ってたよ。そしたらね、ボンと背中叩かれて、三笠宮殿下がおいでになることが決まったんだって。それで、本当にころっとかわっちゃたよ。
パラナ、マット・グロッソ、ミナスみんないった。カンポ・グランデ、ドラードスとかはできたばっかりだったな。パラナなんかは全部の町まわったよ。もう、へこたれたよ。
――山本さんはどんな考え方をしていたんですか。
本永▼とにかく山本さんはお祭り好きで、一年中お祭りばかりやってた。
――なぜ、そんなにお祭りばかりやっていたんですか。
本永▼五十年祭、どんちゃん騒ぎのお祭りするのは、うきうきする。勝った、負けたのもやもやしたものを吹き飛ばしてしまおう、そんな遠大な考え方が山本さんや幹部にはあった。四百年祭でへこたれたからね。お祭りやるのに潤沢ではないが、それなりに金はあった。
――山本さんはパウリスタ大通りのカーザ・ダス・ローザスに住んでいたんですよね。あの当時のパウリスタに、一流のブラジル人を呼んで社交したなんて山本さんだけだと聞きました。一流のファゼンデイロの邸宅ばかりだったとか。
本永▼秋山桃水と俺が屋根裏部屋に下宿していたんだ。
でもバラは二、三本しか生えてなかった。二階建てだったけど、エレベータがついていた。
――当時のリーダーはどんな人たちだったんですか。
本永▼ただ金を儲けるだけのボスと、オピニオンリーダーとしてのボスといろいろいたけど、当時のボスはお金儲けだけじゃなくて慕われる人が多かったね。
あのころ、どの人取り上げても、一国一城のあるじばっかりだった。山本喜誉司は移民から離れていたから、束ねられたんだろうな。移民からのし上がった訳じゃない。だから、うまく行ったんだ。誰が会長になってもうまく行かなかった。毛並みが違うからうまく行った。
藤井卓治は、僕とは全然合わないんだ。だけど、五十年過ぎて、藤井卓治は異色の人だったと思う。人格者じゃないけど、大人物だった。たいしたもんだよ。それを引っこ抜いてきた山本さんは大政治家だよ。
――当時、文協を創立する必要性はどのような点にあったんですか。
本永▼敗戦で日本に帰れなくなった。さあ、ここに居着かなきゃいけない。さあ、生活設計をどうすべきか。日本に向けて生活していた人たちが、百八十度転換を迫られて、なんか求心力のあるものを求めるというか。バラバラだったものが、まとまって地域社会で生きて行かなきゃならなくなった。日本に帰る選択肢を捨てた時、コロニアは変わったんだろうな。そこへ四百年祭、五十年祭がきた。運も良かった。良い時に五十年祭がきたな。
戦争に負けないで、そんなのなかったら、うまくいかなったぜ。
――サンパウロ市四百年祭ではドイツ人やイタリア人コロニアもなんか協力したんですよね?
本永▼奴らは要領が良かった。お祭りだけぱっとやっておしまい。だいたいイタリア人なんかは、もっとすげえことやるべきだったんだ。
それに、日本館作るのに反対まであったんだから。ニーマイヤーは反対したんだ。デザインがまったく違うから、よしてくれって。で、あの外れに作るからと、そこまで反対できなかった。
今でも壊す話も何度もあるぐらいだろ。
――現在の話になりますが、今年は百周年だけど実は交流事業があまりない。実際、日本にブラジルを知りたいと思っている若者がたくさんいても、滞在する適当なビザがないようですが。
本永▼そうだな、二年ぐらいの移民体験ができるようなのやったらいい。
――やはり一年じゃ短い。四季を二回は体験しないと。
本永▼若いうちに二年でも三年でも異次元の生活することは大事だな。
――異次元体験ビザですね。
本永▼そんなのあったらいいな。