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この道はいつか来た道…=今も続く移民の流入=言語、文化、経験も共有化

ニッケイ新聞 2008年3月25日付け

 日本移民は今年一〇〇周年を迎えるが、二十三日付けエスタード紙によると、一九九〇年以降だけで、サンパウロ市には一〇万人の外国人が移り住んでいるという。
 一五〇〇年のブラジル発見以来、ポルトガル人の移住が始まったのが一五三〇年ごろ。その後、一九世紀になり、スイス人やドイツ人ほか、イタリア、アラブ系、スペイン移民の流入開始。
 特に一八八八年の奴隷制廃止以後は移民が増え、一九四〇年代末までに流入した数は約五〇〇万。三分の二がイタリア、ポルトガル、スペインからで、残りはドイツ、日本、ロシア、アラブなどからだった。
 サンパウロ市では一九九〇年以降、欧米や、都市周辺部、内陸部への人口流出も始まったが、その一方、ボリビア、コロンビア、ぺルーなどの南米諸国や中国、韓国などからの移民が流入。その多くが工場での仕事や非公式な商業活動などに従事している。
 これらの移民の子供にとって、住環境の変化など、家族が揃って経験する変化のほかに、学校生活という大きな壁がある。
 特に不法滞在などの問題がある場合、警察への通報を恐れて学校にも入学させないという例も多かったが、サンパウロ市では、ヴィザその他の書類がなくても入学を認可し始めたことで、子供の教育を受ける権利が保証されるようになった。
 それでも、すべての子供たちが歓迎されるわけではなく、「おまえはここの人間じゃない」とか、「逃げてきた国へ帰れ」と言われることもある。ポ語を知らない場合には偏見、いじめがより顕著で、孤立して祖国を思い出し、祖国の歌を歌って涙ぐむ子供もいる。
 一方、ボリビア生まれの子供が友達にスペイン語を教え、校内のそこここで片言のスペイン語が聞こえる学校もあるなど、学校側の取組みによる差も大きい。
 サンパウロ市内では、ボリビア人の就学子弟が三〇〇〇人以上いるほか、出稼ぎで日本に行って戻ってきたケースも含めた日本人が七〇〇人、パラグアイ人四五〇人、ペルー人三〇〇人、アンゴラ人二〇〇人、コロンビア人二〇〇人、中国人一八〇人、その他、エクアドル、キューバ、ベネズエラ、イラン、韓国などの子弟登録は数十人ずつ。
 ブラジル人生徒の中には、自分たちこそが市民権を持つと考える子供もいるが、彼らが知っている世界はごく一部でしかないことを移民の子供たちは教えてくれるとは学校関係者。ブラジル文化を変化に富んだ、豊かなものにしてくれた移民の歴史は今もなお息づいている。