ニッケイ新聞 2008年5月14日付け
三日目、四月二十一日午前八時半、イタリア移民が多く入ったタンガラーに向けて出発。普通の農業には適さない傾斜地に、ブドウ畑が作られている。わずか一時間で到着。
この一帯は、良質なブドウがとれることで有名な「ブドウ谷」として知られ、人口九千人の小さな町ながらワイン醸造所が三つもある。その中でもナンバー1のモンテ・カルバーリョのお土産店に案内された。
同社は九七年に創業七十年の同業アデーガ・カーザ・グランデを買収し、州最大の六百六十五万リットルというワイン貯蔵能力を誇るようになった。広大な自社農園も所有し、年平均二百万キロのブドウから百四十万リットルのワインを生産している。
モンテ・カルバーリョ自体も三四年にパンセーリ家が創業した老舗であり、創業者ルイスさんの孫世代が今もしっかりと続けている。現在は兄弟で経営しており、その一人、市長三期目のファウスチーノ・パンセーリさん自らが説明に来た。
「サンパウロから遠路来てもらって本当に嬉しい」と市長は両手を広げて歓迎のポーズをする。「自分はイタリア語はしゃべれないが妻はできる」と笑う。
この町の歴史は一九一〇年、ブラジル・レールウエイ社が鉄道敷設にあたって、ペッシェ川沿いの美しい川沿いに惹かれて、あらかじめ駅を建設したことから始まった。
同市役所サイトによれば、鉄道工夫相手に最初の商店を開いたのはポルトガル人だ。ところが町周辺は一六年にコンテスタードの乱が終結するまで開発は進まなかった。
一八年から駅周辺の土地を拓殖会社ピコリが取得し、南大河州から入植者を募集したことから、大量のイタリア移民が入ることになり、多くはブドウ栽培などに従事した。
特徴としては、ペイシェ川をはさんで左側にピコリ社が募集したイタリア移民が植民し、右側はドイツ系植民会社「南伯拓殖連合」が開いたためにドイツ移民が大量に入り、初期には橋をはさんで棲み分けしていたことだ。
現在では混血が進み、町の人口構成としてはイタリア系七五%、ドイツ系二〇%、残り五%がその他だという。人口九千人だが、うち四千人は農村部に暮らすという。
一行は説明を聞き、お土産物屋で特産のサラミやワインを買ったあとバスで市役所前広場まで行き、観光局ガイドのタチアネ・センドロンさんから各人の名前が入ったカードを付け取った。彼女は母親がドイツ系、父親がイタリア系という町そのものの出自を持つ。
「母親は七歳までドイツ語だけだったけど、私はまったくしゃべれないわ。イタリア語なら少しわかるけど」と恥ずかしがり、もっぱら日本語で会話している一行を見渡し、「みなさんの方がよく文化を継承しているわね」と笑った。
現在、町にはセントロ・クルツラル・イタリアーナが建設されており、イタリア語やイタリア舞踊を教える予定だという。
二十歳過ぎと若いタチアネさんだが、「今は混血が進んでいる。今のうちに保存しておかないと無くなってしまう」との危機感を語った。民族は違え、同じような想いを共有しているようだ。
(つづく、深沢正雪記者)
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