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五木ひろし来伯公演を断念(上)=ブラジル側不手際に翻弄され=「二度とブラジル行かない」

ニッケイ新聞 2008年5月27日付け

 二十三日、百周年記念式典に出席して君が代を歌う予定だった大物歌手五木ひろしの来伯が正式にキャンセルされた。四月末には日本の関係者から「常識ではとても考えられない事態とも思います」という最後通牒ともいえるメッセージが来ており、ギリギリまで来伯スケジュールは確保されていたが、五月一日には五木プロから「このような状況で五木ひろしをいかせる訳にはまいりません」と断念する通知があったことがニッケイ新聞の取材で分かった。同プロはブラジル側の不手際に翻弄されたあげく辞退を表明、「二度とブラジルには行かない」とまで怒っているという。
 二十三日、百周年記念協会の上原幸啓理事長宛にFAXが届いた。
 五木ひろしブラジル公演の仲介役として日本側で動いていた小西良太郎氏から式典参加を辞退する書面で、「諸般の事情から五木氏訪伯を断念のやむなきにいたりましたのがその理由でございます」と慇懃な文面だが、「とても残念に思っております」と無念さが行間からにじみ出している。
 小西氏は元レコード大賞審査委員長を務めたこともある日本歌謡界の実力者だ。
 同日、ブラジル日本アマチュア歌謡連盟(以下、ブラジルNAK)にもメールが入った。こちらは五木プロの寺本保治社長からで、来伯時の興業を取り仕切る予定だったイベント会社サンシャイン宛だ。
 「当初より私どもは記念式典に参加することを大変光栄に受け止めておりました。しかしながら、ブラジル日本移民百周年記念協会との話し合いの結果、あくまでも協会サイドの申し入れにより記念式典への参加を断念せざるをえないこととになりました」とある。
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 今年一月には、来伯費用もサンシャインが責任を負うとの文書を出し、五木ひろしプロ関係者が下見に来伯するなど、「ブラジル公演できる見通し」と日本側は認識していた。
 レコルジTV局が宣伝を担当して式典前にクレジットカードホールでコンサートを行う段取りも行われ、あと解決すべき課題は「式典で君が代を歌う」扱いを残すだけ、と思っていた。
 ところが、百周年協会は松尾治執行委員長名において三月十六日付けで五木プロに文書を送り、君が代は「あくまでコーラスの一員として歌っていただくものであり、コーラスをバックにした独唱ではありませんので、個人的なハンドマイクの使用についてはご遠慮いただきます様お願い申し上げます」と事実上、断るに等しい条件を付けていたことが分かった。
 その理由は「コーラスや観客席の人々の歌声が等しく皇太子殿下まで届くように、特定の歌手が個別のマイクを持たないということで、全員の一致で決定しました」と書いてある。
 これに対し、小西氏は松尾氏に宛てた四月二十四日付け書面で、「当初のご依頼から大きくずれ込み、後退していることに、正直なところ失望と不安を抱くにいたりました」とある。
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 この件は北川彰久氏を窓口に小西氏が来伯した〇六年二月が発端だ。話がこじれたのは同年六月に北川氏が訪日した際、在聖総領事館を飛び越えて日本の大物政治家に直接お願いして、外務省本省に電話を入れてもらった件にあるようだ。
 それでもこの時点での五木ひろしの扱いは、〇七年二月二日付けの上原理事長、松尾執行委員長連名の「要請書」では、「日本を代表する歌手として二千人のコーラスをバックとして、五木ひろし様に『君が代』を斉唱していただきたく」と明記されていた。
 その後、話が進まないことにあせった北川氏はその政治家に手紙を送り、それが外務本省にまで照会された結果、不信感が高まり、それを受けた在聖総領事館では態度を硬化させていた。
 大物政治家を北川氏に紹介した石井久順氏はこの経緯を知り、羽田宗義氏と一緒に仲介して、なんとか総領事館と北川氏の〃手打ち式〃を同四月に行った。その上で、「来年(〇八年)三月まで正式な返事は待ってもらいたい」との前向きな回答までもらっていた。
 ところが、その六月に北川氏は訪日してもう一度同じ政治家にお願いした。そこから外務省の態度硬化は決定的なものになった。
 百周年協会のある幹部は「我々も外務省にも世話になっている。君が代だけになんともできない」と漏らす。その結果、「合唱団の一人なら」という条件をつけてきたようだ。(つづく)