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バンデイランテス植民地=「青年時代の思い 今も」=出身者の集いで旧交温め

ニッケイ新聞 2008年5月31日付け

 バンデイランテス植民地出身者の集いが十八日正午から、サンパウロ市の山梨県人会館で開かれた。二年に一度開かれる同会。今年は出身者、家族など約四十人が出席して旧交を温めた。
 先亡者へ黙祷後、世話人の金子正且さん(86)は「六十四年前十八歳から二十二、三歳だった若者も今ではじいちゃん、ばあちゃんですが、皆さん今も元気」と挨拶、「この先も続けていきたい」と述べた。
 高野春男さん(85)の音頭で乾杯、料理、刺身などを囲んで昔話に花を咲かせた。
 同植民地は第二次大戦中の一九四四年ごろツッパン郊外で創設された。ミヤザキ・ヨシオという人物が売り出した約五百アルケールの土地に、準二世を中心に入植。棉作などに従事し、最盛期は約六十家族が暮らした。青年会は八十人。野球も盛んでツッパン管内でも強豪だったという。
 四四年にポンペイアから移り、五年間住んだ池泉三郎さん(83)も「日本人ばかりだったね」と振り返る。植民地では日本語も教えられていたようだ。
 同植民地は戦後、六〇年頃まで続いた。棉景気が落ち込んだ後はアメンドインなどに切り替える人もいたが、多くはサンパウロ市へ出た。
 父親が自分のシチオでブラジル学校を開いていたという中野良一さん(66)は、七歳の頃、トラクターを運転して教師を迎えに行っていたという。「エウニセさんといったかな。まだ元気かな」と思い出す。斉藤準一空軍総司令官も同植民地で暮らしたことがあるという。「当時はやせていてね。少し覚えてますよ」と中野さん。
 サンパウロ市での集いは十年ほど前まで十五回ほど開催されていたが、当時の世話人が亡くなったこともあり中断。〇四年に再開後、今回で三回目になる。
 「六十年経って集まるのは珍しい。世話人のみんなが先頭に立ってやっているからでしょうね」、〃野球でならした〃と皆が口を揃える高野春男さんは話す。金子さんは「青年が団結した当時の気持ちが続いているから、今でもこうして集まれるんですよ」とにぎわう会場で話していた。