ニッケイ新聞 2008年6月11日付け
日伯友好の象徴がついにブラジル、サンパウロに――。「旧神戸移住センター」で四月二十八日に太陽光から採火された『友情の灯』が先月末サントス港に到着、八日に臨時運行された移民列車でサンパウロ市モオカ区の移民博物館(旧移民収容所)に運ばれた。ジョアン・サアジサンパウロ州文化長官が出迎え、上原幸啓・ブラジル日本移民百周年協会理事長とともに日伯友好の象徴の到着を祝った。灯は二十一日にサンボードロモで行なわれる記念式典で点火される予定。
サントス市の市庁舎で同日午前九時から行なわれた式典では、サンパウロ州観光スポーツ局のクラウリ・アルヴェス局長、サントス市のヴァニア・セイシャス観光局長、丸橋次郎在聖首席領事、与儀昭雄県連会長らが出席。
カンテラに移された友情の灯をボンデ(路面電車)で、臨時運行される移民列車が出発する港まで運んだ。
午前十時二十分にサントスを出発した列車は、約三時間をかけ、モオカ区の移民博物館に到着、サアジサンパウロ州文化長官やアナマリア・レイトン同博物館長が出迎えた。
サアジ文化長官は、「ブラジルが一つであることをみんなで祝える百周年になれば」とあいさつ。
上原理事長は、「この灯は、日本人の魂を象徴している」と話し、日伯友好を強調した。
折しも同博物館では、毎年恒例の『移民祭り』が開かれており、多くの人が『友情の灯』の到着を祝っていた。
懐かしさ、悲喜こもごも=12人の移民らも乗車
移民列車には、十二人の移民たちも乗り込んだ。ほとんどの移民がサントス着港後、この列車に乗り込み、モオカ区の移民収容所に滞在、夢と希望を胸にそれぞれの配耕先に向かった。
同鉄道は一八六七年、イギリス資本により設置され、一九四六年にブラジル国営化、九六年まで客車が運行していた。
当時は木製の座席で五時間かかったが、今回はゆっくりとしたソファで飲み物のサービスを受けながらの楽しい列車の旅。
移住当時と同じルートを辿り、それぞれの思いを胸に、往時を懐かしんだ。
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「コーヒーの耕地で六年働いた。その後は綿でしたね」。今回の最年長者、サント・アンドレ在住の山西豊さん(94、広島)は、戦前の移民生活を振り返る。一九三〇年、「ぶえのすあいれす丸」で着伯。七十八年ぶりにサントスからの列車に乗った。
カンテラに移された『友情の灯』を感慨深げに手にする豊さんを見上げるのは、結婚して六十七年目を迎える妻玉枝さん(87、愛知)。三三年に十二歳で移住した。
「ファゼンダから迎えに来た通訳の人が真っ黒な顔。『ブラジルにいたらこうなるのかな』ってビックリしました」とサントス港での最初の思い出を振り返り、懐かしそうに笑う。
杉本良江さん(81、静岡)は、三六年に十歳で着伯。船内で体調を崩していた父親五島千代松さんは、サントスにあった三笠旅館に担架で運び込まれたが、着伯三日後に亡くなった。十二月一日、三十二歳だった。着伯直後に家長を失った一家の苦労は並大抵のことではなかった。
「着いたときのサントスの風景なんか思い出せないけど、人間悲しいことは覚えているものですね」。
そう頷きながら、良枝さんは、車内で供されたモルタンデーラのサンドイッチをパクリ。
「当時は、気持ち悪くて捨てたけど、今思えば、勿体ないことしたね」と移民女性ならではの逞しさとユーモアを覗かせた。
「日本もブラジルに来たときのこともあまり覚えてないよ」とこともなげに話す州崎恵利さん(76、和歌山)は、弟の順さん(59)と参加した。五五年チサダネ号。
「けど、この風景は変わってないよね」と車窓から、遠い目でサントスの海岸山脈を見遣った。
坂本りさえさん(85、秋田)は、「天気のいい日だったですよ。一九三三年八月二十五日でした」。三三年さんとす丸。
「真っ黒に焼いた肉を挟んだパンが配られてね。そんなの日本で食べたことないもんねえ。だから、ブラジル人にあげました。移民列車がセーラで止まったときも降りて遊んでいましたよ」と無邪気だった十歳の頃を思い出す。
移民の思い出が詰まったこの路線の客車運行再開は、サンパウロ州の観光プロジェクトとして持ち上がっている。
車掌を務めたアンデルソン・アルヴェス・コンテさんは、「是非、運行させてほしいね」と笑顔で話しながら、終着駅となった移民収容所への到着を大きな声で告げた。