ニッケイ新聞 2008年7月5日付け
先の6月18日は「移民の日」。今から100年前のこの日、781名の移民を乗せた笠戸丸は、サントスの14号埠頭に接岸し、ブラジル移民の第一陣となって大きな花を咲かせる礎となる。4月28日に神戸を出港しシンガポールから喜望峰を回って大西洋に入りコーヒーで大儲けの夢を抱いての上陸だったが、待ち受けていたのは苦難の道であり、厳しい日々の暮らしであった。
話題の多い笠戸丸移民
以後―戦後も含め約25万人が南米の大国に渡り日系人口は今や150万人に達し政界や実業人、官界にと幅広く進出している。
それにしても、笠戸丸には話題が多い。移民たちの写真を見ると、全員が洋服なので驚く。これは自費で買い求めたものだとされるが、1908年は明治41年であり、普段着は和服だし、特に女性は着物が圧倒的だった。恐らく―これは水野龍氏の皇国殖民会社の指示があったのではなかろうか。
ブラジルの新聞も報道し歓迎の記事や黄禍論を背景とする反対論もあった。移民で初めて歯科医師になった金城山戸と鮮やかにカードを捌く博徒「イッパチ」(儀保蒲太)の厚き友情。こんな移民たちの歩みを見ながら「日本移民とは何だったのか」を探りながら移民の小史を辿りたい。
日本とブラジルが国交を開始したのは1895年であり日本公使館が設置され珍田捨巳公使が着任する。後に駐米大使や侍従長になって伯爵になる珍田公使は、駐米大使のときにも排日運動で苦労するのだが、ブラジルへの日本移民導入にも批判的だったし、反対論はかなり多かったことも否定できない。
こうした情勢に反論し「移民推進論」を展開したのは杉村濬公使であり、サンパウロとミナスを視察した復命書は水野龍氏ら多くの人に影響を与えた。
ブラジルは奴隷制を廃止したばかりで働く人々が不足しイタリア移民を導入したが、トラブルがあり禁止になったこともあり、農場主が労働者を求めていた。
これが、日本移民の導入と結びついたのだし、日本移民が農業に尽くした功績は大きく「農業の神様」とまで賞賛されもした。
苦節舐めたコロノ時代
コーヒー栽培に従事したコロノ時代の苦節は誰しもが嫌になるほどに舐め、それでもカネを貯めたいの心で一所懸命に働き額に汗も。電気はない。トイレもない。大好きな風呂もない。鉋の掛け方も違う。ご飯を炊くのも水を入れるのではなく、米を脂で炒め熱湯で炊く。これに言葉の悩みは尽きない。
1930年頃にリンスに近いグアインベーの上塚植民地にいた人によると、サッペ小屋に住み椰子の樹木を割いてベットを作り葉を敷いて寝る。 勿論、床にタッコはなく土間である。竈も和風にし土で造り、ここで煮炊きする。味噌と醤油は自家製のミーリョを使い、夜はカンテラ。金満家は懐中電灯を持っていたがほとんどの家庭にはなかった。
勿論―便所はない。飲料水も汲むところが遠いので隣の3家族と深さ53メートルを掘って井戸を完成したときの喜びは格別でダンボールに水をいっぱいにし風呂に入った感激は今も覚えている―と老いの眼を輝かせる。若い女性移民は野外トイレに頭を痛めたろうし、風呂にしても天井なしの星空を仰いでの風流を楽しむ。
こんな話をしても、若い3世や4世には理解が困難だろうし、日本からの大学組も「えっトイレがないの」と仰天し魂消る。冷蔵庫もないのだから豚肉や魚は塩漬けにするか、味噌漬が普通だった。魚の干物はとても美味くてピンガを呑むカリスが口を離れなくて困ったものだ―とも。
とにかく、現在の暮らしを基準にして考えてはいけない。笠戸丸から1930年代までの植民地の人々はみんなが、苦しみと闘いながら暮らしていたのをしっかりと記憶に留めたい。
組合や植民地の設立
こうした苦境にありながらも、日本移民は農業協同組合の設立や植民地造成への動きが活発になってくる。石橋恒四郎を中心にして1919年にミナス州ウベラーバ市に設立した産業組合が初めての農協とされる。
この一帯は米栽培が盛んな地域で1世移民の米作りもかなりいたが、販売などで仲買人に買い叩かれるのを避けるために組合をつくり対抗したものらしい。だが、これは間もなく解散しているけれども、1927年にはコチア産組が生まれ各地に日系の組合が誕生する。
コチアの最盛期には組合員が16000人を超え南米最大に発展し、南伯も6千人の組合員を擁したのにすでに解散に追い込まれているのはご承知の通りである。
ブラ拓の金融部門から出発し、コロニアが育て上げた南米銀行も、あとひと息で200支店に近づいたときに資金不足に陥り「身売り」して崩壊し日系社会の銀行が姿を消したのは寂しい。
殖民事業は東京シンジケート代表の青柳郁太郎がサンパウロ州と交渉し無償で交付されたレジストロ、桂、セッテ・バーラス3植民地の開発についたのが1913年であり、これが第1号となる。
これに次いで馬場直の東京植民地が1915年3月、笠戸丸の通訳だった平野運平が同年8月に開いた植民地はマラリアの被害が悲惨を極め、平野も帰らぬ人となり今も語り継がれる。
皇国殖民会社の支配人・上塚周平のイタコロミーとお玉さんを愛人とし「ジャカレー」と呼ばれた星名謙一郎も1918年に植民地を開き入植者を募っている。
こうした日本移民による植民地は2000を越えるそうだから凄い。ここでは触れないがブラ拓のバストス、チェテ、トレース・バーラス、アサイや海外興業とアリアンサも忘れてはなるまい。
これらの集団が移民の文化を築き、短歌や俳句を始め小説について議論し陸上・野球・柔剣道の基盤となったし、無声映画には移民が大挙して押しかけ泣き大笑いもする。
日本人の移民を語るときに何故か悲劇と艱難を軸にする場合が多い。年老いた人の額に刻まれた刻苦の皺と節くれだったデコボコの手を非情なまでに描き、惨憺たる暮らしを強調する。
確かに―血の出るような労働もあった。生まれ育った故郷の文化と異なるブラジルでの葛藤はカルチャーショックとなって胸の内を苛む。移民会社の宣伝にあるような収入には遠く、悲嘆に呉れるときもあった。だが、古い移民らは血の滲むような努力をし、この国の考え方を理解しながらスポーツや趣味の世界を広げていったのも事実である。
活動写真で泣き笑い
苦しみが多かったからこそ娯楽―暮らしの中に楽しみを求めた。
1927年には「日蓮」を描いた映画がサンパウロに着く。勿論、日本の活動写真は始めてであり、移民たちは感激し、涙する人もいたそうだ。
まだトーキーがないので弁士が滔滔と説明すると、観客の移民らは大喜びしたとフイルムと映写機を持って植民地を巡回して歩いた人に聞いた。その持て方は大変なもので「風呂に入って下さい」に始まりご馳走して呉れ、威勢のいい若者は「弁士になるんだ」と家出する者もいた。
この巡回映画は企業にまでなったし、移民たちは今度はいつ来るのかと待ち望んだものだという。
人気高かった伯光団
芝居もあった。若い頃に娘歌舞伎に出演していた光石竹乃さんが、息子の清次郎さんら家族と立ち揚げた「伯光団」である。竹乃さんは「尾上菊昇」の芸名で鬘はアルミの鍋かを細工してこしらえ舞台装置も手作りながら人気は高い。
このプロ劇団も植民地から植民地へと回るのだが、あの頃は映画も芝居も「入場料」は取らないで「お花」だったらしい。まあ―ご祝儀であり、これで十分に暮らしが成り立ったそうだから大したものである。
ちなみに、伯光団は1933年に始まり戦後も活躍し、1983年(昭和53年)9月4日にはバストスの日伯文化会館で創立50周年を祝い、菊昇こと竹乃さんも壇上に上がり挨拶した。そんな竹乃さんも、86年に87歳で黄泉へと旅立って行く。
映画は戦後も賑やかで嵐正太郎(山元貞義)らが「島原天草の乱」や「荒神山の血煙」を製作している。
こうした芸能だけではなく、短歌や俳句などの文芸活動も盛んだったし、陸上競技や野球に熱中する移民もいっぱいだった。
従って、移民は苦労ばかりと見るのはおかしい。もっと楽しくという娯楽を求めていたことに目を向けてもいいのではないか。例えば、運動会はすでにブラジル語化しているし、今も各地で開かれ家族慰安の役割を果たしている。植民地には日本語学校があり、ここで読み書きを習った子どもたちは沢山いる。
知的な好奇心、向上心
サンパウロでは1914年の12月に松村総領事の肝いりで後藤武夫氏宅(藤崎商会社員で笠戸丸より早くブラジルに着く)で日本クラブが創立され、星名謙一郎がブラジルで初の邦字紙となる「週刊・南米」を1916年発刊する。
このように移民社会は少しずつだけれども、組織化が進む。1932年には海外興業のエメボイ農業実習所が開設され幾多の人材を送り出したが、日本語学校と共にこれらは日本人移民の教育熱の高さを示したものと受け止めたい。
産青連運動や農事講習会、農産品評会もあり、これらが各地域の活性化に尽くした功績はもっと語られていい。
後年―サンパウロ大学などへの入学比率で日系人は10%超になるのも、この熱心さが関係するのかもしれない。
この知的向上心は続いており鈴木悌一氏が奔走し1976年に創立したサンパウロ大学日本文化研究所は、そんな一つと評価したい。初めの頃は運営資金も不足しがちだったらしく、研究するための書籍もあまりなかったようだし台所は苦しい。それでも30年が過ぎると、研究の水準も高くなり、日本の専門家も褒めるような状況になったのは喜ばしい。
今は古典や文学を軸に勉強しているようだけれども、近い将来には、所謂―ジャパノロジスタが輩出するものと期待したい。真に残念なのは、こうした学問的なものに対して日系社会は冷たいというか、いろんな面で協力や支援をしない気風が見られることである。
これは日本語学校のモデル・スクール建設も同じであるのは哀しい限りと言わざるをえない。
7世、8世の時代に
この100年を振り返ると、日本移民を排斥する動きが2回あり、あの戦争ではジュキアなどからの退去命令もあったし勝ち組と負け組の抗争ではテロが起こり悲劇そのものであった。
3世や4世と非日系の「民族間結婚」が激増しているのも、いささかならず気になる。もうすぐに日本民族だけの血を繋いだ純血の7世や8世はいなくなるのではないかと杞憂する向きもいる。と、移民社会は猥雑で複雑なのだが、日本人移民は、このブラジルで勤勉に働き実績も残したのは称賛していい。
移民100周年に対するブラジルの取り組み方やマスコミの評論、市民らも日本移民をしっかりと評価している。生活の仕方も風俗もまったく異なるブラジルは、日本移民にとっては東洋文化と西洋の文化の接点だったので口では言い難い苦心を重ねたと思う。
だが、ブラジルは多民族国家であり、いろんな国の文化が入り混じっている。ポルトガルにバカリャウがあればイタリアはスパゲッティを誇る。日本は鮨と天麩羅だし韓国だと冷麺とそれぞれのお国自慢が並ぶ。
これは移民70周年のシンポで発表された梅棹忠夫教授の「サラダ文化論」を契機としてブラジル文化という大きなものを受け入れながら日本の文化をも生かすという生き方に変わってきたと見たいし、ここから21世紀のブラジル文化が華やかな花開くと信じて疑わない。