ニッケイ新聞 2008年8月15日付け
本日十五日で、六十三回目の終戦記念日を迎えた。戦争がコロニアに引き起こした惨事といえば、同胞が傷つけ合う悲劇となった勝ち負け抗争だろう。これにより一九四六年三月から翌年一月までに二十三人が亡くなったが、その最初の犠牲者となったのが、バストス産業組合の専務理事だった溝部幾太だった。その惨劇から六二年たった先月十八日、溝部の長女、吉雄ミユキさん(93)、次女樋口愛子さん(88)、三女勝谷チエコさん(73、二世)は父が凶弾に倒れた場所へ、初めて足を向けた。三人の証言を合わせ、当日の様子を紙上に再現した。この事件は、半世紀以上の歳月を経てもなお鮮明に記憶に残り、人々の心に影を落としている。
「私に子供がいなかったら、一生かかってでも父さんの仇を取りたかった」―。当時一歳の子供がいた愛子さんは、父、溝部が勝ち負け抗争の最初の犠牲者となって凶弾に倒れた四六年三月七日を、昨日のことのように覚えている。
「夕方になってうちの犬がいつもよりうるさく吠えてるって母さんが言ったけど、父さんが猫に吠えてるって言ったんよ」。当時一緒に住んでいたチエコさんは口を開いた。
夜十一時過ぎ、客を見送った後、裏庭の戸が閉まっているかを確認しトイレに行った溝部は、隣の洗濯場に潜んでいた山本悟に撃たれた。
山本は洗濯場のタンク裏に隠れ、夕方から何時間も溝部が出てくるのを待っていた。「おしっこがいっぱいしてあって、セルベージャの空瓶があったらしい」(ミユキさん談)という。
「鉄砲の音を聞いて『今夜のは、えりゃ大きかったね』って母さんが言いながら寝室に入ると、寝てると思っていた父さんがいなかった」とチエコさんは振り返る。
隣の組合に住んでいた非日系人の役員が、猫を追い払うために空に向かって鉄砲を撃つ音を何度も聞いていた母の言葉だった。
「お母さーん、お父さんが撃たれたわよー」。裏庭を見に出たチエコさんの叫ぶ声に、妻コトは裏戸から飛び出した。
トイレから胸をかきむしるようにして、家の方へ数歩よろめいてくる溝部に、コトは声も出せずにただ駆けつけた。痩せたコトに、溝部が寄りかかって倒れたのは、背丈ほどの桜の木の下だった。
「孝ちゃん、お医者さんを呼んでちょうだいー」。ちょうど映画から帰ってきて玄関にいた三男、孝行にチエコさんは叫んだ。
「それまで山本はまだそこに潜んで見とったのね。孝ちゃんが裏庭の戸を開けて走って医者を呼びに行ったときに、一緒に逃げたのよ。馬がパカパカって走っていった」と振り返る。
「夜警が笛を鳴らしながら、銃をこちらに向けた。誰かが走る音が聞こえた。こちらも銃を向けた。夜警はまた笛を吹きながら走り去った。私は現場から西の方向へ走って逃げた。それから三晩寝ることができなかった」と、山本はそのときのことを証言している。(つづく、渡邉親枝記者)
写真=当時の自宅の入り口で回想するチエコさん、ミユキさん、愛子さん