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溝部の娘が62年振りに現場へ=バストス=勝ち負け最初の犠牲者(下)=「神も仏もないものか」=組合に尽した父の背中

ニッケイ新聞 2008年8月16日付け

 六十二年前の三月七日、溝部が凶弾に倒れて息を引き取ったのは、裏庭の小さな桜の木の下だた。溝部の妻コトは、夫が倒れた時のことを「人間にあんだけの血があるって自分は知らんかった」と、訃報を聞いてポンペイアから駆けつけた次女の愛子さん(88)に話したという。
 「『あと一センチ、玉が右か左にずれていたら、あんたの父さん死ななかった』って、一週間くらい経って来た検察医から聞いた時は、神も仏もないもんかなって思った」。愛子さんは静かに天を仰ぐ。
 当時の面影を残す小さな平屋建ての母屋の裏で、花が好きだった溝部と一緒に植えた桜の木の跡を見つめながら、愛子さんは声を震わせ、溢れ出る思いを止めどなく語り続けた。
 「あんなに(仏を)頼ってた人をね。人間の力じゃできんけど、神だったら右か左に少しずらすくらいできるでしょう。悔しくてね。仏に一週間ご飯も何にもあげんかった」
 長女のミユキさん(93)と愛子さん、三女のチエコさん(73)の三人は、父親としての溝部をこう描写する。「口数が少なく間違ったことが嫌いな人だった。人に親切にしなさいって、それだけをいつも身を持って教えてくれてた。人の悪口も言ったことがないような真面目な人」
 チエコさんによれば、当時のバストス産業組合は財政状況が苦しく、専務だった溝部は何年も月給を貰っていなかった。
 その上、「母さんが親から貰った、いつか日本へ帰るための旅費も父さんから組合に渡っちゃってね。返して言っても組合は返してくれんかったよ」と愛子さんはいう。
 「父さんは豚とか飼ってるし、醤油も味噌も作っとった。米も私が作っとったから、それを持ってきてね。『自分は食べていかれるから(給料を)貰わんでもいい』って言ってね」と、当時を振り返った。
 経済的に娘に頼る状況を、溝部は少しも恥じなかった。それよりも、専務として部下を思い、「月給取りは食べていかれん」といって優先的に給料を払っていた。
 「組合のために一生懸命働いてね。そしてこんなことになって。本当に情けない…」と、愛子さんはこみ上げてくる怒りを静かにおし殺した。
 殺害後、溝部の墓に狂歌が置かれた。「世の中に幾多(幾太)の罪を残しおき きょうの最後のザマをみぞべえ(溝部)」
 この一首によって事件は勝ち組の犯行であると判断した捜査当局は、深夜まで勝ち組の若者たちを拘束し、問答無用に〃尋問〃したという。
 残された溝部一家八人が、不穏な空気が立ち込めるバストスの街から去ったのは事件の翌年。ミユキさんの住むアルバレス・マッシャードに移った。
 愛子さんは事件後の胸中を、「夫に暇をもらって一生かけてでも犯人を探し出して殺してやりたかった。自分の人生はどうだってよかった。でもその時一歳になる男の子がいてね」と無念そうに語った。
 溝部は自分の子供を抱いたことが無かった。だが、愛子さんの長男、勝郎が元旦午前一時に生まれたときは、「この子は偉い子になる」といって抱いたという。愛子さんは目に涙を浮かべ、その時のことを振り返った。
 チエコさんは「日にちは経ってもやっぱり忘れられないのよ」と話す。一年か二年に一度、お盆の時期には三姉妹揃って墓参りに行くそうだ。
 勝ち負け抗争の最初の犠牲となり奪われた溝部の五十五歳の命。六十二年ぶりに事件現場に立ちながら、「何十年経っても、父さんの名前が取り上げられることがせめてもの慰め」というチエコさんの言葉に、ミユキさんと愛子さんは深く頷いた。
(終わり、渡邉親枝記者)
写真=当時の自宅中庭で事件を振り返るチエコさん(左)と愛子さん



「父の仇を取りたかった」=溝部の娘が62年振りに現場へ=バストス、勝ち負け抗争最初の犠牲者=(上)=今なお記憶に残るあの日