ニッケイ新聞 2008年8月19日付け
ボサ・ノヴァ五〇年といわれる今年、ボサ・ノヴァ誕生といわれる前からボサ・ノヴァを作り、ブラジルが存在する限り彼の歌は歌い継がれると評されている作曲家で歌手のドリヴァウ・カイーミが十六日朝、リオ市の自宅で逝去と十七、十八日伯字紙が報じた。
二十四歳までバイア州に住み、その後の七〇年をリオ市で過ごしたカイーミ氏は享年九十四歳。九九年に腎臓ガンを患い、闘病生活を送っていたが、六日に長女のナナ氏とともに歌って以降、急速に精気を失い、ろうそくが消えるようにその生涯を閉じたという。
カイーミ氏が精気を失ったのは、長年の伴侶で、結婚前は歌手として活躍していたエステーラ夫人が昏睡状態に入った時と重なり、ナナ氏は「ロミオとジュリエットの如く、二人の生涯は時を前後して閉じようとしている」と話している。
父がピアノや弦楽器を弾き、母が歌うという環境に育ったカイーミ氏は、十六歳で最初の作品〝No Setao〟を作り、五年後の三五年にラジオで発表。リオに移動後の三九年に発表されたバイアを歌ったコレクションは、四〇年にレコードとして発売され、音楽家としての地位を不動のものとした。
同年、ラジオ歌手として活躍していたエステーラ夫人と結婚。三人の子どもを得、音楽一家の誕生ともなった。
作曲家としては、何度も曲を練り、書き直すタイプだったようで、発表された作品数は決して多くはないが、発表曲の多くがオリジナリティに富み、国民に広く知られる曲となっているという。
すべての音楽家の父でブラジル音楽の本質を作ってきた、バイアの人々や自然、海をありのままに、また、明瞭に歌い上げたなど、氏への賛辞は尽きず、ブラジル大衆音楽の基礎を築いた第一人者は、〝海の詩人〟とも称されている。
十六日からのリオ市議会での通夜や十七日の葬儀には、親族始め、リオ、バイア両州知事、前文化相のジウベルト・ジウ氏など、音楽家やファンも多数参列。両州知事は三日間の服喪も指示した。国旗、リオ、バイア両州旗、サッカーチームのフラメンゴの旗で覆われた棺は十七日午後、市南部サンジョアン・バチスタ墓地に埋葬された。