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慶応USPシンポが開幕=福沢門下が拓いた日伯関係=細江、高岡、森口氏ら振り返る

ニッケイ新聞 2008年8月19日付け

 歴史的な絆をさらに深めるために、慶応大学とサンパウロ大学(USP)の医学部・法学部は、慶応大学創立百五十周年と移民百周年を記念して国際シンポ(十八~十九日)を行うにあたり、十六日にサンパウロ市のUSP医学部講堂で開会式を行った。
 平野セイジUSP元副学長は学長代理として、「欧州移民が三人よれば教会を建てたが、日本移民は学校を作ったと言われるほど教育熱心であった」とし、日本文化の特質としての教育が日系社会に引き継がれており、日系人だけの進学を示す指数があれば北欧ノルウエーに匹敵するとの計算もあると紹介した。
 慶応大学の森征一常任理事は同校の設立者である福沢諭吉が一八七〇年に著書『世界国づくし』の中でブラジルを「将来有望」と紹介したことに始まり、その影響を受けた山縣勇三郎(笠戸丸以前渡伯、リオで塩田事業を起こした)、水野龍などの福沢門下生が日伯の絆を作り上げてきたことを強調した。
 特に水野は、自ら植民会社を立ち上げて笠戸丸を送ったのみならず、ブラジル政府と契約してコーヒーを日本に輸入し、今もあるカフェ・パウリスタという日本初の喫茶店を銀座に開店、日本での普及に尽力した。
 森常任理事は「ブラジルの名を広げるのに慶応は大きな役割を果たしてきた」とし、「将来に向け、今回を機に更なる学術交流が行われるべき」と締めくくった。
 USPの法学部長のジョン・ブランジーノ・ロダス氏は「法学部と医学部、この二学部がUSPの歴史を作ってきたといって過言ではない。それを支え、大きな貢献をしてきたのが日系人であることを誇りに思う」と賞賛した。
 慶応医学部の竹内勤教授に続き、渡部和夫USP法学部教授は「セミナーや人材交流の歴史は長いが、本格なシンポは初めて」と位置づけた。
 イタリア系子孫のエンリッキ・リカルド・カルバーリョ教授は「イタリア移民は南米で稼いで帰ろう」と旗印に多くが帰国したが、「日本移民は残った。そしてUSPの歯学部と工学部に多く入った。そして勤勉さ、誠実さをブラジルに持ち込んだ」と持ちあげた。
 USP工学部の上原幸啓教授は「一九三六年のさんとす丸で来たが、同年代の同船者十人のうち五人はUSPに入学した」と教育を重視した親世代を讃えた。
 続いて、一九四八年に慶応大学医学部を卒業してPUC南大河州に招待されて渡伯し、老人医学を南米に根付かせた功労者、森口幸雄教授(82)を顕彰した。森口氏は、慶応とUSPの両医学部を卒業し、旧日本病院建設に尽力した細江静男医師の功績を振り返り、自らの三十七年間のブラジルでの生活を「顔、頭、ポ語の訛りはどうしようもなく日本人だが、スピリットだけはブラジル人だ」と力強く総括した。

多数を占める日系卒業生=医・法学部ともに一四%

 記念講演として二宮正人USP法学部教授が日伯交流史を概観し、その中で、最初の法学部卒業生は下元健郎氏で、以来千五百人の日系人が卒業し、法曹界を支えてきたと語った。八万人の学生(うち三万人は大学院)のうち一四%、五千人いる教授陣のうち八%が日系人であると発表した。
 続いて、石岡愼一USP医学部教授は、同学部の歴史を振り返り、一九二一年にサルバドールで熱帯病の調査をした野口英世に始まり、一九三九年には氏原マサアキ(二世)が初めて同学部を卒業、第二次大戦のイタリア戦線に従軍したことを紹介し、次ぎに細江医師が卒業、高岡専太郎(慶応卒)の子息の高岡健太郎氏がやはり卒業した。
 同学部の記念誌編纂委員会の調査によれば、一九三九年から〇七年までの間に千二百七十六人(一四%)の日系人が卒業しているという。中でも、女性の卒業者が年々増えており、全体の三八%、近年では四六・五%が女性であると発表され、「移住初期の女性は家庭労働に忙しかったが、近年の女性の社会進出を反映している」と説明した。