ニッケイ新聞 2008年8月19日付け
【愛知県発】二時間の講義を終えて、細谷さんに話を聞いた。百年先のことを自分の責任とすんなり言える、むしろそこまで見通していることが驚きで、どうしてそこまで考えているのか知りたかった。
「僕はブラジル人か日本人か日系人か、自分を意識していない。両方とも好きだけどこだわりがなくて、どこか別の国へ行ってもいいと思う」。
八歳でサンパウロから名古屋へ来た。それから一度もブラジルへは帰っていない。ずっとブラジルに未練があったが、浪人中に日本史を勉強して日本が好きになったという。
「勉強していたらいちばんおもしろいのが日本史だった。日本ってすごい国だと思って、ブラジルへの気持ちで悩まなくなった」。
吹っ切れたことは、流れや意地で進学を目指すよりも、本当にやりたい音楽を続けることにつながった。
細谷さんのように両国ともこだわりなく好きで、バランスよくバイリンガルに育つケースはそう多くない。
「すごいねってよく言われるけど、僕はただ幸運だったんだと思う。先生や近所の人や、環境が」。
細谷さんが来日したとき、小学校にはまだ他に外国人はいなかった。担任の先生は何とか彼のことを知ろうと発言を求めて、あきらめなかった。
また、学校の便りを近所の人が読んで教えてくれたりと、日本人との温かい近所付き合いがあった。
「帰国予定だったけど、親はブラジル学校には入れる気はなかった。授業料が高かったから」。
子どもが好きで、より近い立場の自分が何か伝えたいと、中学や高校での講演をしている細谷さんに、今後デカセギ子弟たちにも講演活動をしていくのか尋ねた。
「日系の子どもたちが日本で自信を持って生きていくには、教えるんじゃなくて夢を見られる手本になることがいちばんだと思う。僕が音楽という分野で日系ブラジル人としてブラジルをアピールして、同じようなことをしたいと思ってもらいたい」。
来年アメリカに音楽留学するために、現在は携帯電話のカスタマーセンターでポ語を担当しながら、ダンス講師もしている。彼の音楽はもちろん、国やジャンルや言語にこだわらない「架け橋の音楽」。
「自分が憧れの人になる。なれるかなれないかじゃなくて、やらなくちゃいけない」。
百年後の日系社会を見通す彼なら、数年後の自分の姿がはっきり見えているのかもしれない。
(つづく、秋山郁美通信員)
写真=○×カードをもって、子どもたちのやっていることを見ているのが細谷さん。国際カレッジで行われたゼミナール「日系ブラジル人とわたしたち」で