ニッケイ新聞 2008年9月25日付け
サンパウロ州食料配給センター(CEAGESP、以下セアザ、ルーベンス・コスタ・ボフィーノ会長)は、日本移民百周年記念イベント「フェスティバル100」を二十、二十一の両日午前十時から、セアザの敷地内(Av.Dr.Gastao Vidigal 1946-Portao 7 Vila Leopoldina)で開いた。セアザに拠点を置く事業主で構成される組合「SINCAESP」の主催。初日午前にあった式典でボフィーノ会長は、農業における日本人移民の貢献を高く評価、「百周年だけでなく、感謝することは多い」と賛辞を述べた。二日間ともにあいにくの雨に祟られたが、約五千人が入場、様々なショーやヤキソバなどに舌鼓を打つ人たちで賑わっていた。
スザノ福博太鼓やラジオ体操協会のアプレゼンタソンにより幕を開けた開会式典には、飯星ワルテル連邦下議、羽藤ジョージサンパウロ市議を始め、日系団体関係者らが出席。
同イベントの古賀オズワルド実行委員長は、関係協力団体に感謝の言葉を述べ、「日本移民は特に農業の面でブラジルの国作りに参加した」と話した。
SINCAESPのロブソン・コリンガ組合長は、「勤勉さや農業の技術をブラジルに持ってきてくれた。日系社会と共に次の百年も歩んでいきたい」とスピーチ。
ボフィーノ会長は、「(六六年の)創立当初は、セアザの公用語は日本語だったほど、日本人移民が市場を支えてきた。世代を超えた現在は約三割を日系が占めている」と話し、「日本人はブラジル農業の先生。百年という節目を祝うだけでなく、感謝すべきことはあまりに多い。ドウモアリガトウ!」と締めくくった。
続いて、野菜、花卉、養鶏など各分野で貢献した二十二人に記念の盾が贈られ、受賞者を代表して謝辞を述べた鈴木克美さん(68、茨城)は、「昔に比べて日本人は減ってきたが、これからもブラジルのために頑張っていきたい」と胸を張っていた。
一九二九年に移住、リンスに入植した清原第次郎さん(90、熊本)は、移住当時から働き手の一人として、家族を支えた。学校にも行けず、ブラジルの大地と闘った人生だった。セアザの野球チームの監督を務めたこともある。「最高です」と満面の笑みで表彰を受けた。
「他のことができないから…」と照れ臭そうに笑う満生昭吾さん(78、福岡)は、一九三三年チエテ移住地に入植、家族とともに米や綿作りに精を出したが、「失敗ばかり」。
耕地を転々とした。出聖後の五〇年代後半から花作りで生活が安定、子供に経営は任せたものの今でも現役でセアザに通う。「今までにないくらい嬉しい。皆さんのおかげです」と深く頭を下げていた。