ニッケイ新聞 2008年10月17日付け
モジ市のイタペチ植民地創立六十周年式典の折り、コチア青年の芳賀七郎さんが「今のイタペチは成功している。だが景気が良い時に次に備えなくてはいけない」と語っていたのが強く印象に残った。モジ市の日系団体はかつて三十ちかくもあったが「今じゃ半分以下になった」と嘆く。過去から学び、先を見る眼力が必要だ▼五〇年代のバタタ、その後はポンカン、バラ、菊、柿、八〇年代からの鉢花類、蘭など次々に新作物を導入し、時代に応じて経済的な基盤を築いてきた。次の作物は何か▼セアザに売りに行くのではなく、観光農村化を呼びかけサンパウロ市から買いに来て貰う発想の転換を図る取り組みも始めた▼十五年前、四十五周年記念で刊行された『イタペチ山脈は見ていた』(九三年、同編纂委員会)の、「日本人の習性ともいえる目先の功利性に走り、豊作貧乏を繰り返し、また投機農業に走り、そうした植民地は崩壊していった」と鋭く今を見通す記述が光る▼著者の八田大八氏(故人)は「植民地の誇れるものを挙げるとなると、第一に植民地内の植民者の和であった」と特徴をあげ、「新旧移民の配合の調和が良かった」と分析。戦前移民が日本から導入した品種の数に驚き、育苗改良されていることに目を見張った戦後移民は「旧移民に敬意を持った」と書く。旧移民の二世と新移民の和も強調した。まさに今、サンパウロ市で欠けているものかもしれない▼八田氏がパウリスタ新聞編集部の一角にどっかりと座り込み、夕刻、モルフォ蝶の四方山話を肴に、古参記者らと楽しげに酒を酌み交わしていた姿が今も目に焼きついている。合掌。(深)