ニッケイ新聞 2008年10月30日付け
ペトロリーナ、ジュアゼイロの植生はカーチアンガ(乾燥疎林地帯)と呼ばれる。年間降水量平均五百ミリ、〃神に見捨てられた土地〃とも言われるほど、過酷な自然環境で知られる。
ブラジル政府は一九四五年に国家旱魃対策局を設置、多くの大容量貯水池を築造したが、活用されることはなかった。
一九七四年にサンフランシスコ流域開発公社(CODEVASF)がミナス州南部の山脈地帯を源流とする全長約三千六百キロメートルにも及ぶサンフランシスコ川の灌漑事業に着手。
七八年には、ペトロリーナ、ジュアゼイロの上流に約三十五兆トンの貯水を誇るソブラジーニョダム建設により、時々氾濫を起こしていたサンフランシスコ川流域は恵みの土地へと大きく変貌を遂げた。
セラード開発同様、ブラジル政府は、コチア産業組合とスールブラジル組合に協力を求め、ミナス・ジェライス州北部のピラポーラに十五人(七九年)、ジュアゼイロのクラサ移住地に三十家族を入植(八三年)させている。
「当時、日本人が土地を奪うとか言われてね、地元の新聞には、『ペリーゴ・アマレーロ』なんて書かれたこともあるんですよ。だけど、今は信頼を得ているからね」
そう淡々と話すのは、サンパウロ州リンスから、第一陣として、クラサに入植した深川一彦さん(66、二世)。開拓され尽くし、土地を広げることもできないサンパウロ州での農業に見切りをつけていた時、コチア組合で募集を知った。リンスから十三家族、パラナのアサイ、カストロ、サンパウロのモジ、レジストロからの入植者もいた。
「十二歳を頭に子供が三人いたしね。仕事もだけど、それが気になってね。学校の手続きが最初の仕事だったよね」。その後、メロンに続き、ブドウを手がけた。現在は農業から離れ、数カ月滞在する日本からのマンゴー輸出検疫官の通訳などを行う。
「僕ら第一陣入植家族のうち今も残っているのは二十家族。だから住みやすいところなのかも知れないね」
ペトロリーナ市内にある深川さんの自宅入り口には、クラサに生えていた木で作った木彫りの人形で魔よけとされる「カハンカ」がある。切り株の形状を利用して、両耳を立てている。「家の守り神みたいなものだよ」と笑った。
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「九六年ぐらいから徐々に輸出が始まり、町も発展、この店も生産者のおかげで大きくなりました」
そう柔和な笑顔を見せる古里カルロスさん(42、二世)は、九〇年にコチア産組の職員としてペトロリーナに。四年後のコチア崩壊後も残り、農薬や農機具販売を行う商店を経営する唯一の日系人だ。
「商品の売れ行きの移り変わりが激しい。海外の好み、世界の市場をよく見る必要がある」と輸出に頼っている景気に対応する努力は欠かせないという。
視野を常に広げながらも、日系購買者による収益の一部を日本人会に寄付するアイデアも出す。
「子供に日本語を教えたいんだ。日本人会の活動にはできるだけ協力する積もりだよ」と話す表情には余裕が感じられた。
(つづく、堀江剛史記者)
写真=ペトロリーナ、ジュアゼイロの州境を流れるサンフランシスコ川