ニッケイ新聞 2008年10月31日付け
ブラジルを知る会(清水裕美代表)はConquest Recursos Humanos社と共催で、元日本代表サッカー選手の呂比須(ロペス)ワグナーさんを迎え、第二十二回講演会『自分の夢を信じて』を九月二十七日に国際交流基金サンパウロ日本文化センターで開催した。貧困ながら家族の愛情に包まれ過ごした少年時代や、華やかな経歴から想像のつかない舞台裏のエピソードからは、トップまで這い上がった男の「心の強さ」が随所に読みとれ、集まった約百人の参加者は時に感嘆の声をもらしながら約二時間の講演に耳を傾けた。
▼ ▼
「諦めずに戦いつづけた男」―と紹介され会場に姿を現した呂比須さんは、流暢に日本語を操りながら、会場の約百人に向かって「どんな夢を持ってますか」と問いかけた。
「サッカー選手、スーパースターになりたい」――五人兄弟の末っ子としてサンパウロ州フランカ市で生まれ、食べるにも事欠いていた少年時代の夢だ。
母親の手伝いや学校の合間を縫っては近所の子供や大人にまざってしていたストリートサッカー。そのルールは「血が出たらファール」のみ。そこで精神的な強さが培われたという。プロになって審判に「あれはファールじゃないよ」と抗議したエピソードを紹介し、会場の笑いを誘う場面も。
十歳で靴磨きを始め、十二歳で本格的に靴会社で働き始めた。呂比須さんは、困難にぶつかっても「諦めない。うまくいかなくても違う方向から考えてやるしかない」と学び、そのしぶとさがプロ時代に生きていったと話す。
幼少時代に培われたハングリー精神が功をなして十五歳でサンパウロFCに入団。元ブラジル代表のオスカー選手に誘われて日本でプレーすることを決意。
日本で結婚し、九二年に長男が誕生した。「息子は日本人。僕も日本人になりたい」と帰化を望むようになったという。九七年に帰化して日本代表に選ばれ、翌年の日本のワールドカップ初出場に大きく貢献した。
しかし、第三代表決定戦のイラン戦の直前に最愛の母の訃報が入る。四十度の熱に五日間うなされ五キロ痩せたというが、帰国せずに代表として戦うことを選んだ。その時、当時の岡田監督から「お前のプレーが必要だ」と励まされたエピソードも紹介した。
翌年ワールドカップジャマイカ戦で、日本人のワールドカップ初ゴールをアシストしたことに関しては、「あれはシュートだったけど、中山さんがおいしいところを持っていった」と言明。会場は笑いに包まれ、「やっぱり」と納得した声も。
〇二年に引退してからは、指導理論とマネジメントをブラジルの大学で勉強し、昨年までパウリスタFCのアシスタントコーチを務めた。現在の夢は、「日本がワールドカップで優勝すること」。日本で監督などをやりたいと新たな目標を話していた。
▼ ▼
講演後に設けられた質問時間では、「プロになるためには、ボールコントロールとパスする、シュートを打つことの三つだけ」とアドバイスするシーンも。
この日はまた、実際に使用していたジャージ一式やユニホーム、ファンクラブのTシャツなどが抽選で参加者に手渡された。