ニッケイ新聞 2008年12月5日付け
この八日で、真珠湾攻撃から六十七年目。かつて戦争と移民は切っても切れない関係にあった▼笠戸丸の背景には一八九四年の日清戦争、一九〇四年の日露戦争があった。戦争による疲弊した国家財政が国民に耐久生活を強いた。貧窮を脱し、日本の外に活路を求めたのが第一回移民と言える▼プロミッソンの安永忠邦さん(87、二世)は英霊奉祭会の慰霊祭で、〃移民の父〃上塚周平が笠戸丸の総監督として乗り合わせた時の話を披露した。航海中、船員らによる婦女誘拐の騒動が発生した時、上塚は船員らの前に立ちはだかり、「この第一回移民たちは日本の運命を担っている人たちだ。彼らに間違いでも起きようものなら、移民の道が塞がってしまう」と訴え、「移民はただ外国に行くのでなく平和の戦士だ。文句があるなら、俺を殺せ」と訴えた▼戦時中を日本で過ごした、日本語教師の草分けの川村真倫子さん(二世)。友が出征する折りに「行って参ります」ではなく、不帰の覚悟をこめた「行きます」と言った言葉を思い出すたびに胸が痛むという▼戦後移民の続木善夫さん(78、愛媛県)は一九四五年に江田島の海軍兵学校に入学した。「終戦までわずか五カ月でしたが海軍精神を学ばせてもらいました」という。驚くことに入学早々、兵学校の教官に「日本は負ける」といきなり言われた。「お前たちは戦後の復興のためにここで勉強をするんだといわれ、感激しました」と振り返る▼移民は国の狭間にいる存在だけに、自然と国際情勢の変化に敏感になる。外国における〃日本のアンテナ〃として「平和の戦士」たることを心がけたい。(深)