ニッケイ新聞 2008年12月10日付け
「妻を捜しています。名前はイザウラ・チズエ・オカ・ストラウベ。小さな二人の娘をブラジルに残して日本に行き、一九九五年から連絡がありません。彼女の最後の住所は兵庫県神戸市(・・・略・・・)。何らかの情報を知っている人はヂジャルマ・ストラウベまで連絡してください」。
サンパウロ州モジ市ジャルジン・カミーラ区の一軒家。モジ駅から五キロほどの住宅街の一角に、デカセギ放棄家族会(AFAD)会長のヂジャルマさん(59)の自宅があった。記者を迎え入れたヂジャルマさんは、切り抜きの新聞記事の山を手に取り、ソファに腰掛けた。手元からは、日本のポ語新聞に掲載した尋ね人の広告文が見える。
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八七年、親戚の知人を通じて日系二世のチズエさんと結婚した。翌年、夫妻は長女リリア(20)を授かり、幸せな家庭を築いていくはずだった。しかし、時のコーロル大統領がインフレ抑制を目的に銀行預金の封鎖を実施したため、ヂジャルマさんの小さな事務用品会社は倒産した。
「日本に働きに行こう」。すでに四十歳を過ぎ、良い仕事を見つけるのは難しかった。次女ガブリエラさんも生まれ、生活は逼迫。夫妻は話し合い、娘二人を連れて日本に行くと決めた。ただ、肝心のビザが出たのはチズエさんだけ。後々に日本に呼び寄せてもらうことで落ち着いた。
チズエさんは九三年から神戸市内のホテルでベットメイキングの仕事をし、毎月約八百ドルを送金した。その金で、夫妻の夢だったマイホームがモジに建った。
訪日して三年、チズエさんは阪神淡路大震災で被災した。間もなく一家に無事を知らせる電話があったが「どこか様子がおかしかった」。不安は的中した。それまでに送った計二万五千ドルと新しい家を償いにするかのように音信を絶った。「一体どうしたのか」。不安と不信感だけがつのったが、一切連絡の取れない日々が続いた。
それから五年。チズエさんが一カ月の休暇を利用し突然帰国。一家の前に姿を現した。
「目的は離婚。娘たちも母親と再会したが、彼女は娘を抱きしめることなく、ただポツンと立っていた」。妻は別人のようだった。離婚調停の末、毎月三百ドルの養育費を彼女が支払うことに決まった。
しかし、この支払いも二年目になって時々になり、三年目には完全になくなった。「約束はどうなったのか」。手紙を送っても、あて先不明で送り返されてきた。
ヂジャルマさんは、家屋の修理や配線工事など、いわゆる便利屋の仕事を始めていたが、収入は低く不安定。幼い娘を仕事場に連れて面倒を見ることもあり、ぎりぎりの生活を送ったという。
今年高校を卒業する次女ガブリエラさんは十七歳。母親との思い出はほとんどない。日系三世の彼女は最近、大学進学費用を自分で稼ぎたいと父親に打ち明けた。「日本に働きに行きたい」。ヂジャルマさんの思いは複雑だ。「娘の決断だから」と言葉少ない。
「今となっては彼女に憎しみも悲しみも感じない。娘もしっかり育ってくれたから」。チズエさんから届いた手紙を両手に、ヂジャルマさんは小さくつぶやいた。(つづく、池田泰久記者)
写真=元妻から送られてきた手紙を手にするヂジャルマさん(モジ市の自宅にて)