ニッケイ新聞 2009年1月8日付け
日本語学校「椎の実学園」(落合磨園長)の「正月式」が、今年も一日朝、同学園で開かれた。創立以来休むことなく続くこの集い。日本語学校として実施しているところは少ないだろう。五十六回目の今年は生徒十一人はじめ、父兄、教師など三十人余りが集い、厳かに新しい一年の始まりを祝った。
式は午前十時過ぎに開会。最初にあいさつに立った落合園長は、「今年で創立五十七年。五十六回目の正月式ができた。あなたたちのおかげです」と出席者に感謝を述べ、「父(創立者・故落合四三氏)に教えられたように、一人になっても最後までこの式を続けて行きたい」と誓った。
園長はまた、仕事に追われながら子弟の教育に力を注いだ父母、祖父母の歴史を振り返り、「感謝の気持ちを忘れてはいけない。今コロニアはその気持ちを忘れているのではないか」と話した。
日本、ブラジル両国国歌を一同で斉唱。「百周年が終わり、今年から新しい移民の歴史が始まります」とあいさつした音楽教師の小野寺七郎さんは、「言葉や文化が分からず苦労した初期移民を支えたのは家族。まず家族を大事にしてください。お父さんお母さんの話を聞いて祖父母の苦労に感謝し、ブラジル人として幸せをかみしめてほしい」を語りかけた。
その後は生徒代表として永石清治さん、大勝すえみさん、北本秋子さんが今年の意気込みを発表した。
卒業生を代表してあいさつした永石光晴さん(20)は現在カンピーナス大学の学生。大学入学後も日曜日に同校で学び、昨年卒業した。教師や父兄、友人への感謝とともに、落合四三氏の夫人で〇一年に八十九歳で亡くなるまで同校で教えた〃おばあちゃん先生〃、落合えきさんの思い出を振り返り「立派な大人になるよう誓います」と話した。落合園長から永石さんに卒業証書が、図画の成績が良かった北本明美さん(10)に賞状が贈られた。
「緑におうイピランガ――」の歌詞で始まる校歌を歌い、小野寺教師の発声で万歳三唱。その後は持ち寄りの食事を囲んで懇談した。
椎の実学園=学んだ生徒1万人=戦後日語校の草分け
一九五二年四月一日に始まった日本語学校の草分け、椎の実学園。創立者の落合四三氏(愛知県出身、八七年死去)は三二年に渡伯、サンパウロ州カフェランジアを経て平野植民地で子どもたちを教え、戦後サンパウロ市で同学園を開校した。今は息子の磨さん(66、カフェランジア生まれ)が園長を務める。
現在の生徒数は百人ほどで、教師は十一人。毎日の日本語授業に加え、音楽や図画、生け花など情操教育にも力を入れる。中でもコーラスは、他の日語校に先駆けて始められた。
音楽教師の小野寺さん(79、東京都)は五五年の渡伯以来、同学園で教鞭をとっている。東京藝術大学の前身、東京音楽学校で学んだ小野寺さんは、移民五十年祭記念曲「南國の宵空」の作曲も手がけた人物(作詞は岡崎親・日本語学校連合会会長)。移民五十周年から七十周年にかけての記念式典では、同学園からも五千人のコーラス隊に参加した。
小野寺さんによれば、同学園のあるサウーデからイピランガにかけての地域には、以前は三十校ほどの日本語学校があったという。椎の実学園はその中でも大きく、多いときには三百人ほどの生徒がおり、野球部もあったそうだ。「サンパウロで一番月謝が安かったんですよ。皆が日本語を学べるように」と小野寺さんは振り返る。
同校では現在、正月式のほか、七夕や発表会、コーラス、忘年会などの行事を催している。「両親がサンパウロに出たときは、まだ日本語教育に対してうるさかった。でも催し事をやるうちにだんだん日本人が尊敬されるようになりました」と話す落合園長。元々は技師だったが、「物足りないところがあった」と、教育の世界に専念するようになったという。
五十七年目を迎えた椎の実学園。現在までに学んだ生徒は約一万人に上る。四世代に渡って通う家族もある。
落合園長は、「生徒には留学を目的にしてほしい。そして日伯の架け橋になってほしい」と期待を込めるとともに、「日本的な規律の正しさ、ブラジルで信用されていることを誇りに思っています」と話す。
校舎の一室を使った資料室には、写真や文集、新聞の切り抜きなど、同学園五十六年の歩みを伝える資料が大切に保管されていた。卒業生からの手紙もあった。生徒たちが学校の歴史を知り、卒業生たちが懐かしい思い出に触れられる場所だ。
落合園長の住居は校舎の敷地内にある。現在でも授業が終わる夕方になると卒業生などが訪れるそうだ。「学園は一つの家庭のようなものですよ」、落合園長は嬉しそうに話していた。