ニッケイ新聞 2009年1月8日付け
〃戦勝国〃日本に帰る船旅の途中、南アフリカのダーバン港で偶然、日の丸を掲揚している船と遭遇した。海軍だった父親は、すぐに手旗信号を送ってこちらに日本人がいることを教えた。するとその日本船から小舟で数人がやって来て、漬け物などの日本品を持ってきてくれた。
もちろん、話題の中心は戦争の顛末だった。勝ち組家族に取り囲まれ、凄い剣幕で「勝ったはず」という雰囲気が漂っていたためか、日本船の船員ははっきりしたことを最後まで言わなかったという。
父親は船員のその態度を「日本が勝ったとは言えんのだ。世界の秩序が乱れるから」と理解し、信念にぶれはなかった。
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一九五二年六月初旬、三カ月あまりの船旅の間に期待に胸を膨らませ、ようやく到着した神戸港で、池田さんは信じられない光景を目撃した。
「ポン引きの自転車にサイドカーをつけた乗り物に、米兵とパンパン(日本人売春婦)が乗っていたんだよ。目を疑った」
何かがおかしい。日本が勝ったはずなのに。「それに港が汚い。ファベーラみたいに荒れていた」。
神戸の薩摩荘で夕食をし、その日の晩、夜汽車に乗って博多に向かうことにした。神戸駅で電車を待っていると、頭に手ぬぐい、闇米を背負ってモンペをはいた中年女性が地面にべったりと座ってタバコを吸っていた。
戦勝国で恥をかかないようにと、背広にネクタイ姿だった池田さんは「日本は乱れとる」と感じた。
決定的だったのは、目の前を進駐軍の特別列車が通ったことだった。
根本的な疑問が池田さんの頭の中に渦巻いていた。確認したくてたまらなかった。夜汽車の隣にたまたま座った四十歳ぐらいの男性に、戦争の顛末について尋ねた。長崎まで出張に行くところだという。
日本の有様、敗戦の事実を聞いた。「冷や水を頭からジャブジャブかけられたようだった」。もちろん、ほかに聞くことはなかった。
「車中、朝まで一睡もせずに話をしました」と振り返る。祖国に到着したその晩に、敗戦を悟らざるをえなかった。
「なんてことだ。ゴミ掃除をしてでも生活しなくては」。故郷に帰っても仕事のあてはまったくなかった。「これぐらいやなことはなかった」と当時の心境を振り返る。
博多の駅に迎えにきた叔父さんは国民服姿で、やつれて疲れきった顔をしていた。日本への期待はことごとく裏切られ、「なんともならん」という気持ちだったという。
あり得ないはず、起き得ないはずのことに、立て続けに直面した。
池田さんの父親も落胆し続けだった。東京で洋裁店を経営しているはずの妹も東京大空襲で亡くなっていたことを知った。頼りにしていた従兄弟の有名政治家、中野正剛は、あろうことか自殺していたことが分かった。
戦時中の四三年に朝日新聞に、中野正剛は独裁色を強めていた東條英機首相を批判する「戦時宰相論」を発表、憲兵隊から倒閣工作を謀ったとの嫌疑をかかられて尋問され、同年、自宅で割腹自殺を図っていた。
(続く、深沢正雪記者)
写真=父親・前田枡五郎さん(1972年死去=サントアンドレーABC文協50年史より)