ニッケイ新聞 2009年1月9日付け
両親は失意の中、わずか二カ月でブラジルへ帰った。「オヤジは本当にがっかりしていました」。弟家族も一年間で帰った。残ったのは池田さん家族三人だけだった。
最初に飛び込んで求職を申し込んだ仕立屋では、やんわりと断られた。すっかり意気消沈していた池田さんは、呆然自失のまま、博多の中州の繁華街を歩き、気がついたらまったく知らないところを歩いていた。
「運命の不思議というんでしょうか」。見知らぬ工事現場の手前で道を曲がった。そこを通ったのはまったく偶然だった。その道端で三十五歳ぐらいの人の良さそうな男性がタバコを吸っていたので、思い切って声をかけた。
「ブラジルから帰ってきました。何か仕事はありませんか」
その男性は博多で有名な仕立屋、ロビン洋装店の支店社員だった。ブラジルで仕立屋をやっていた池田さんは話が合い、その日のうちに社長と面接して二時間も話し、即採用が決まった。
その洋装店は当時、職人を六十数人も抱えていた。日本は英国式の背広が主流だった。戦時中にサンパウロ市オンゼ・デ・アゴスト街の金子洋服店に二年ほど修行し、独立して自分の店を構えてから、イタリア系子孫からイタリア式の仕立も習っていた池田さんの技術は、日本では貴重だった。
「当時、商科大学出た人の月給が七千~八千円だったのに、私は一万三千円もらっていた」。さらに持参金を店に投資し、その配当も入った。悪くない経済状態だった。「当時の県知事のモーニングも作りました」。新しく繁華街に作る支店を池田さんに任せる話まで進んでいた。
でも、最終的にブラジルに帰る決心をした。
ルイス号でいろいろな国の人に会った経験から、日本語でなくてもいいから息子には学問をつけさせたい、という思いが強かった。当時、それなりの月給ではあったが「無学の職人では日本の大学にやるのは無理。ブラジルなら」と考えた。
さらに、一緒に来た義父や義弟が次々に帰る中、奥さんは心細い心境に苛まれていた。池田さん自身も「持ち家もなく、なんか宙に浮いたような生活でした。心が落ち着かないというか」と思いだす。
もう一つは「期待していた日本とは違っていたこと」。戦後に大変貌を遂げた祖国の現実の姿は、自分がブラジルで期待していたものとは大きく違っていた。そんな時、先に帰伯した父が送ってきた切符はアフリカ回りだった。
帰る間際、叔父さんからも「あんた、社長並みの給料もらっているのに…」と不思議がられた。 五四年三月、希望に燃えて初渡伯する呼び寄せ移民、家族移住者に混じって、チチャレンガ号で神戸港を出港した。「まだ薄暗い朝でした。神戸港を見ながら、もう見納めだな。もう二度と戻ることはないだろう」と心の中で誓った。
あれだけ熱烈に願っていた帰国の、あっけない幕切れだった。
(続く、深沢正雪記者)
写真=移住者の万感の思いをのせて出港する移民船(日本海外移住家族会連合会創立30周年記念誌より)