ニッケイ新聞 2009年1月28日付け
移民導入権の申請から紆余曲折を辿った松原植民地だったが、目を見張る発展を遂げてきた。
一九五六年七月六日付けパウリスタ新聞では、入植三周年を前にしてすでに百家族が同地へ移り住み、ドウラードス地域はマ州一の活気に溢れている様子を伝えている。
その一方で、三十年ぶりになる大雨に見舞われ、交通手段は遮断され、悲惨な状況になっていることも紹介。また、これらを救済するはずの共同組合が全く機能していないなどの問題も出てきている。
同記事は「こんな悪条件のなかで苦しみながら入植者たちはこれを開き畑をひろげ作物を植えて行った。現在日本人だけでカフェー植付本数は三十万本を越しており、また間作の米、豆類、その他副業の養豚、養鶏も相当行われている」と伝えている。
五六年八月二十六日には同地で入植三周年の祭典が、先に入植した人たちと一緒になって盛大に開催された。同年九月二十五日付け日伯毎日新聞では、八ページにわたって入植三周年の特集が組まれている。
一ページ目には、式典当日の写真と各関係者が寄せた祝辞。州知事の祝辞には「日本人が入ったところは全て発展している。わが地方へ来る日本人に対し、常に心からこれを尊敬し、歓迎するものであることを誓いたい」との気持ちを表している。
一ページから二ページ目にかけては、ドウラードス地域の歴史が書かれている。
同地は三六年十二月二十日に誕生し、当時は人が少なかったが、松原植民地への入植者によって一気に人が増えた。
邦人が最初に入植したのは四六年ごろ。カンポ・グランデからドウラードス市まで車で約三日とかなりの距離があったが、かなり土壌が良かったために多くの人が入植した。記事には「すごく粗末な板造りの家が立ち並んでいた。まさか、今のような状況がくるとは。始めは無一文で入ってきた人が多かったが、今では成功者になっている」と驚きが綴られ、「日本移民によってドウラードスは発展した」と明言されている。
この他には、経済、人口、教育、農業生産、人口の群勢などの統計が掲載され、その数字から発展ぶりを伺うことができる。最後には、開墾時代の思い出を語る座談会も開催され、貴重な話が披露されている。
座談会の中では、「子弟教育問題のため、学校を建設」「松原、大谷氏からの現金融通が多かった」「医者はドウラードスにしかなかった」「戦時を思えば食べ物は満足」「マレッタはなかったが、アメーバや赤痢があった」「ブラジル語も三年までしか勉強できない」「尋常小学校六年程度は覚えさせたい」など初期入植者たちの様々な思いが綴られている。
入植三周年祭で同植民地は州統領の名前が付けられたが、数年のうちに使用されなくなった。その後、松原の名前のほうが分りやすいとのことで、現在の名前が使用されている。(つづく、坂上貴信記者)
写真=入植3周年の新聞特集(日伯毎日新聞1956年9月25日付け)