ニッケイ新聞 2009年1月29日付け
松原植民地に入植した小野享右さん(75、南麻州日伯文化連合会会長)は大阪生まれ。父親の仁(まさし)氏は鉄道関係で仕事をしていたことから満州へ。その間、小野さんは岡山に住む姉の家で暮していた。九歳のときに、父のいる満州へ移り、四年間過ごし終戦を迎えた。栄養失調寸前の状態で日本に帰国し、八年ほど日本で過ごした後、ブラジルへ再移住した。
五三年九月にあめりか丸でブラジルへ移住した当時、小野さんは二十歳だった。
父・仁氏は入植してから二年ほどは仕事ができなかったという。同植民地に入植した人々は貧しい状況だったから、食べ物や生活費を援助してもらうために、マリリアの松原、リオの大谷晃横浜正金銀行支店長代理のところへ出向いていた。
入植当初は松原が中心だったが、五四年に帰国した後は大谷支店長代理が全面的に援助をした。
小野さんが入植した場所は土地が低く毎年霜にやられた。「入植した場所は何もなくて、壁に椰子の木を張って家にした。満月の夜は月を見ながら寝た。大雨になると風向きによって家の外に居たほうが濡れなかったりしてね」と当時を思い出す。
小野さんは毎年二アルケールほど山を伐採していったが、小木などが残りなかなか山を開くことはできなかった。「なかなか作業が進まなくて、故郷はどこかって思いながら山伐りをした。僕が入植したところは場所が良くなかった」と話し、「下草が青くてカフェもなかなか植えられなかった」と苦労を滲ませながら語った。
ようやく他の人たちと同じようにカフェを植えたが、霜の影響によって十年間で一度しか収穫することはできなった。その後、採算が合わなくなったためにドウラードス市に住居を移した。
霜が降りにくい場所に入植した人は業績が良く、初年度に米を植え、二年目に収穫できた人たちは食料を確保できた。このようなことも影響して、年数を重ねるうちにかなりの差がついた。
「ブラジルは地震や台風がないし、お金さえあればパライゾさ。ここでは、お年よりがゲートボールにダンス、カラオケなどで楽しんでいるし」と弾んだ声で話す。「先人のおかげで、日伯関係は良好。百周年にも関わることができ、立派なフェスタを行うことができた。勉強なんかしていないから、日本に居たら何もできなかっただろう。今では大豆を植えたり、定年を超えても働けたりしている。本当に良い国だ」と今を喜びながら話した。(つづく、坂上貴信記者)
写真=約10年間松原植民地で過ごした小野さん