ニッケイ新聞 2009年1月31日付け
松原植民地への入植開始と同時に日本人会、男女青年会もそれぞれ発足した。和歌山市民図書館サイトによると、青年会は四十六人で、十五キロある植民地の端から端まで道路の修理をしたりしていた。また、日曜日には綿摘み、トウモロコシ取り、稲刈りなどの共同作業をして青年会の収入源とした。〃その収入をもとに、トラックに乗って皆でピクニックに行くことがとても楽しみだったという〃と当時の様子が示されている。
当初は活気を見せていた日本人会だが、一世から二世、三世へと世代交代する度に、運営難に陥った。現在では会は名前だけの状態になり、九〇年代頃まで使用されていた会館も、今は使用されていない。
松原植民地を案内してくれた岩城修さん(ドウラードス市在住)によると、松原日本人会には日本語学校、野球部、青年会などがあり活気に溢れていた。会館では運動会や演芸会、結婚式場など日本人の様々な催しが常に開催されていたという。
会館は今もその外観を保っているが、一歩足を踏み入れると、窓ガラスもなく今に崩れそうな状態だ。しかし、舞台は当時のまま残されており、記念誌「躍進の道」に掲載されている慰安演芸会の写真がまぶたの裏に浮かぶ。
会館の隣には現在ブラジル人が暮しており、教会が建てられている。昔、運動場として使用された場所は、サトウキビに囲まれたサッカー場になっていた。
一方、カフェの収穫の方に目を向けると、「躍進への道」によれば、五四年に植えたムンド・ノーボ種が五七、五八年に収穫。六三年の調査では、カフェ樹が五十万本までに達している。また、ドウラードス市に進出したコチア産業組合に多くの人が加入し、入植者の定着率も九〇%と高比率を残しており、飛躍的な発展に繋がっている。
しかし、六三年頃から三年連続で霜被害とカフェ相場の下落による経営困難、子供の教育のためなどの理由で徐々に入植者たちはドウラードス市内やサンパウロ市へ出て行くようになった。
七五年に起った大霜を引き金に多くの人が移住地を後にした。この時、最大時の半数以下になる二十五家族に減少。八二年には十八家族、八〇年代後半は十三家族、現在では五家族だけになってすでに十年以上の歳月が経過している。
七五年まではほとんどカフェを植えて生活してきたが、徐々に大豆、綿、牧畜に変わってきて、現在では大豆、トウモロコシが農業の中心になっている。現在、松原植民地でカフェを植えている家族はほとんどいない。(つづく、坂上貴信記者)
写真=入植時に建設された会館は、今もその外観を保っている