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松原植民地=56年目の追憶《11・終》=植民地見つめ続けて半世紀=西尾さん「カフェは自分の子のよう」

ニッケイ新聞 2009年2月4日付け

 もう一人、初期入植者で今も同地に住み続けている人がいる。和歌山県出身の西尾まさえさん(81)だ。二十六歳の時に、夫と一緒に五歳と三歳の子供を連れて松原植民地に移り住んだ。
 会館から続くカフェの木に囲まれた道を車で走ること約十分、開けた場所に一軒の家がいきなり姿を現した。庭に収穫したばかりのカフェの実を昔ながらの方法で乾燥させている。
 眺めていると西尾さんが顔を出し「来るのなら前もって連絡してくれたら、アルモッサ(昼食)でも用意していたのに」と朗らかに笑いながら歩み寄ってきた。
 八十一歳を迎えた西尾さんは、現在週に一度は自分で運転して、町へ出かける。また、週に二回はカフェや農場を見回っているほど、元気いっぱいだ。
 畑を見に行く途中、「戦後間もない時に金のなる木、カフェを求めて移住してきた」と西尾さんは話し始めた。「入植当時は、今みたいな状態じゃなくてね。無花果の木ばかりで畑を耕すのも大変だったのよ」と畑を見ながら笑った。
 在伯五十五年を迎える西尾さんは、二十三年前に一人の跡取り息子を事故で亡くした。その後、夫は酒浸りになり十七年前に亡くなった。以来、西尾さんは一人で農場を切り盛りしながら、子供たちを育ててきた。
 現在、西尾さんの農場は、二アルケールのカフェと十八アルケールのトウモロコシの栽培をしている。
 「昔はもっと大きくやっていたんだけど大霜にやられてね。もうすぐ収穫で『今年は良いぞ』って言っている時に限ってやられるのよ」と振りかえる。
 日本から来る時に持ってきたネックレス、指輪、服などは全て売って必死にカフェの木を植えたと苦労話を語りながら「カフェには愛着があってね。自分の子供のようでとても愛着があるの。現在残っているカフェは、八五年の大霜の翌年に植えたもので、今でも多くの実をつけてくれるのよ」と、木を見ながら嬉しそうに話した。
 「子供たちからは、『もう年なんだから、町で一緒に暮そう』と言ってくれるんだけどね。外人たちに農場を渡してしまうと、カフェなんてすぐに引っこ抜いてしまうでしょ。だからなかなか離れられないの」と優しい眼差しでカフェを見つめていた。
 「生活は大変だったけど、金のなる木のおかげで四回も日本に行けたの。カフェは本当に金のなる木だった。来て良かったと思うわ」と嬉しそうに話した。
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 戦後初の南伯移民として松原植民地に入植した六十三家族。勝ち負け抗争の影響もあり、日本移民はもろ手を挙げて喜ばれたものではなかった。そのような苦境の中、日本移民の導入を訴えてきた松原と辻小太郎の両氏に九千家族の導入権が与えられ、戦後ブラジル移民の先駆けとなった。
 松原移民に対し、戦前移民は特別な思いを抱き、大歓迎をした。その様子は邦字紙で大きく扱われている。
 多くの人が日本の戦争の結果を問いかけられ、あらかじめみんなで決めていた答えを返している。戦争が終わった事実を教えられ、悲しみと喜びに浸ったことだろう。
 そんな新しい風を運んだ新移民たちだったが、入植当初は苦労の連続だった。それを支えたのは、松原、片山、大谷ら三氏の金銭的、精神的援助であり、また、入植者のほとんどが戦争を経験し、耐え抜いてきた人たちだったこともある。
 九〇%の高い定着率を記録、入植三周年には盛大に式典を挙行した松原植民地。しかし、降霜被害により植民地を後にする入植者が相次ぐという、悲しい結果となった。歴史に〃もし〃はないが、もし天災もなく順調に発展を続けていたら、南マ州はもちろん国内でも有数の土地になっていたかもしれない。
 移民史の中で取り上げられることの少なかった松原植民地。だが、ドウラードス地域の発展に関わったのは間違いなく日本人であり、現在の基盤を築いたと言っても過言ではない。そこには松原だけでなく、多くの人たちの努力や協力があったことを忘れてはいけない。(おわり、坂上貴信記者)
写真=85年に植えたカフェの前で写真に入る西尾さん