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分岐点に立つ若者たち=第2部・デカセギ子弟の帰化問題=連載〈1〉=真境名弘行さん=10月に派遣切りで失業=自動車産業へ不況直撃

ニッケイ新聞 2009年2月5日付け

 愛知県在住の秋山郁美さん(=本紙通信員、元本紙研修記者)は、昨年八月に連載「分岐点に立つ若者たちー在日子弟の悩みと将来」第一部(全三回)として二十歳前後の二人の生き様を掲載したが、さらに踏み込んだ「日本への帰化」問題を扱う第二部を送ってきた。日本で育った日系子弟が、いずれ真剣に考え、悩む大事な問題だ。ブラジル側日系社会としても親身になって、彼らの思いを受け止め、理解する必要があるだろう。〃二つの祖国〃に翻弄されるデカセギ子弟の真の苦悩が、ここにある。(編集部)
 【愛知県発】幼い頃から日本で育った結果、日本国籍を取得することを決意するデカセギ子弟たちがいる。彼らにとって帰化、日本人になるというのはどういうことだろうか。日本国籍を取得した二十四歳のふたりに話を聞いた。

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 「日本語ができても日系二世でも、日本国籍とっても、やっぱり外国人扱い、日本での生活は諦めた」。
 真境名(まじきな)エドアルド弘行さん(24、二世)は、米国発金融危機による世界不況のあおりをもろにうけた日本の自動車産業に派遣社員として務めていたが、昨年十月に解雇された。
 だが、派遣切りをされてから二カ月間、「日本人」としての履歴書をもって賢明に職探しをしていたが、結局は年末に帰伯した。そこに至るには、十九年間にわたる〃二つの祖国〃を行き来する日々があった。
 一九九〇年に六歳でブラジルを後にし、母と姉とともに神奈川県川崎市へとやってきた。
 父は半年前に来日、仕事や住居を定めていた。
 母は沖縄生まれの準二世。普段から祖母と日本語で話しているので言葉の心配はないと思っていたが、到着すると彼女が話す琉球の方言はまったく通じず「パニック状態だった」という。
 それから家庭ではポ語禁止、母は必死で日本語を勉強した。当時まだ派遣会社による紹介はなく、外国人もそれほど多くなかったため、病院や学校の手続きに苦労した。
 両親は何年間日本でデカセギするのか、はっきり決めていなかった。だが、子供の教育上、帰伯するのが遅くなりすぎるとまずいと考え、四年後、姉が高校に入る前年、弘行さんが十歳のときに一家は帰伯した。
 「友達と別れるのは寂しかったけど、おばあちゃんたちに会えるのは嬉しかった」と当時の心境を思い出す。
 真境名さんは、日本でポ語の勉強をしていなかった。そのため、帰伯しても会話は問題なかったが、読み書きができない状態だったので、三年間家庭教師をつけてポ語を特訓した。
 「日本語を勉強する時間はなかったけど、ビデオゲームをやったり日本の音楽に興味があって歌詞を訳したりしていた」というだけあって、彼の日本語は十歳で成長を止めてはいない。
 特訓の成果もあり、ポ語は無事追いつき、IT関係の仕事をしながら大学へも進学した。
 しかし経済的事情で大学を中退せざるを得なくなり、今度は自らデカセギする決心をした。(つづく、秋山郁美通信員)

写真=真境名(まじきな)エドアルド弘行さん(左は祖母)