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分岐点に立つ若者たち=第2部=デカセギ子弟の帰化問題=連載〈2〉=帰化したが帰伯を決意=「国籍あっても外人扱い」

ニッケイ新聞 2009年2月6日付け

 両親に連れられて幼年期を過ごした日本に、今度は自らの意思で行くことを決意した真境名(まじきな)エドアルド弘行さん(24、二世)。
 「日本でフットサルの監督をしている叔父の影響もあって、サッカーやフットサルをやるために日本に行ってみたいという夢はあったけど、それまではデカセギに行くとは思ってなかった」と当時を振り返る。
 自動車関連の派遣で毎日三時間残業。二百万円を目標に、二年間働けば大学に戻れると考えていた。だが、実際に働き始めて計画は変更された。
 「思っていた以上のお金がもらえたので、頑張れば大学、マイホーム、マイカーは夢ではなかった。結局そこまでうまくいかなかったけど」と苦笑いする。
 その一方で、「母は一歳でブラジルへ渡ったけど、沖縄人という意識が強い。ぼくも母の戸籍に入りたいと思っていた」という気持ちも強かった。
 また、職場や生活の中で外国人扱いを受けることや、従弟が二重国籍であること、海外へ行くときに日本のパスポートが有利であることから日本国籍取得を考え始めた。
 「ちょうどビザの更新時期になって、必要な書類が帰化もそれほど違わない。それなら帰化がいいかなって」。
 昨年九月、日本国籍を取得。母の籍に入って「小波津エドアルド弘行」になった。しかしその翌月、米国発の金融危機が起き、不況のあおりを受けて職場を解雇された。
 派遣切りにあった後も二カ月間就職先を探したが、「日本人です」と言って履歴書を出しても、「これでは正社員は無理だ」と外国人扱いされた。
 名前を見て面接さえしてくれないところも多々あり、苦い思いを味わい続けた。
 所属しているフットサルチームの仲間からは「日本人になったから正社員になれるね」と言われ、自分でも日本で生きていくことも真剣に考えていた。だが、職探しでの反応を見て、すっぱり帰国を決意し、昨年十二月、実際に帰伯した。
 彼は、やりたいことができる場所を生きていく国に選んだ。
 「ずっと派遣のような仕事は無理だし、やっぱりIT関連の仕事に憧れがあった」
 現在はサンパウロ市に戻り、大学復学の準備をしている。
 夢を尋ねると、「二十七歳までにはパパになりたい。子供と一緒にサッカーするって、ブラジルのパパたちの夢じゃないかな」という。
 「日本で日本人と見られること」を求めて戸籍を手に入れたが、複雑なアイデンティティの糸をほぐすにはそれだけでは足りないものがあった。
 これからも増え続けるであろう、日本社会の影響をより強く受けたデカセギ子弟たちは、どのようにして自分の道を模索していくのだろう。
(つづく、秋山郁美通信員)