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分岐点に立つ若者たち=第2部・デカセギ子弟の帰化問題=連載〈3〉=藤橋ゆき江さん=日系人が日本人になる時=「やっとしっくりきた」

ニッケイ新聞 2009年2月7日付け

 「やっとしっくりきた感じがする」。戸籍を持ったことをそう話す彼女を、実は、筆者は小学校の頃から知っている。あの頃からは髪型くらいしか変わらず、浅黒くて人懐っこい笑顔もそのままだ。
 彼女の内面は、どうやってブラジル人から日本人になっていったのだろう。
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 藤橋ゆき江さん(24、三世)は五歳のとき、両親と妹の四人で来日した。パラー州都べレンを発って到着したのは、外国人のほとんどいない静岡県の田舎町。以来、幼稚園から高校までずっと日本社会で生活してきた。
 「幼稚園のときは日本語に困ったという覚えはないけれど、わたしが何を言っているのかわからなくて先生が大変だったみたい」。そう振り返る。
 同じ水泳教室に通っていた筆者は、彼女の家と家族ぐるみの付き合いがあった。
 和室の部屋にはハンモックが吊るされ、出してもらう料理もニンニクの効いた味付け。彼女も親をポ語の「パイ」、「マイ」で呼ぶ。ほかの友達の家庭とは明らかに雰囲気が違っていたが、不思議と違和感をうけなかったのを思い出す。
 「学校では全然外国人扱いされないし、ブラジルと関係することがないからかな」。
 彼女は家庭(ブラジル)よりも社会(日本)により適応していった。
 「いつの間にか、わたしの中で自分は日本人だと思うようになってた。ブラジルは好きだけど、何で自分が日本人じゃないのか不思議な気持ち。おじいちゃんたちは日本人だし、わたしの血も顔も日本人なのに」
 ブラジル人というよりは、「ブラジルで生まれた日本人」という感覚に近いようだ。日本人と日系人との境界線は、とても入り組んでいて一筋縄ではない。
 中学入学と同時に日系ブラジル人の多く住む静岡県沼津市に引っ越したが、彼らに特別な仲間意識は持たなかった。
 表彰式などの場面で、フルネームを呼ばれたときなど、周りの反応が気になった。
 高校卒業後、日系人が多く登録する派遣会社大手のイカイグループに正社員として就職するが、しばらくは国籍を隠していたと言う。
 「高校生のときアルバイトの面接で、かなり手ごたえがあったのに落ちたことがあって、どう考えても国籍が原因としか思えなかった。ブラジル国籍は就職には不利になると思う」。
 帰化しようと思ったきっかけは、単純だった。日本のパスポートのほうが海外旅行で便利そう、ということ。入社後すぐに海外研修があったため、思い付きから決心に変わるのに時間はかからなかった。
 「家族や親戚からは特に反対されなかったし、一年後に許可が下りたときには、おめでとうって」。(つづく、秋山郁美通信員)
写真=藤橋ゆき江さん