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激変するデカセギ事情=大挙帰伯の真相に迫る=連載《5》=職業相談会に殺到=「ブラジルに溶け込めず孤立」

ニッケイ新聞 2009年2月18日付け

 「普段ならデカセギ帰りの人は十五人くらいなのに、先月の職業相談会には七十五人も来た。みんな仕事を探し、それぞれの悩みを抱えている。事態の緊迫さを実感せずにはいられなかった」
 一月に行われたグループ・ニッケイ(島袋レダ代表)のデカセギ帰伯者向け相談会には、通常の五倍が殺到した。冒頭の言葉は、中林ミルトン副代表がその時の様子をしみじみと語ったものだ。
 同グループはサンパウロ市リベルダーデ区で、毎月第二木曜に一般を対象とした職業相談や講演会に加え、六年前から毎月最終木曜にデカセギ帰り向けの「ただいまプロジェクト」を行っているが、今年に入って帰伯デカセギが加わり急激に膨れ上がった。
 この十二日にも、悩みを抱えたデカセギ帰伯者約二十人が集まった。中には人生の半分以上を日本で過ごし、バブル以降の経済発展を底から支えてきた人もいる。手に職を持たない彼らは帰伯後、居場所を探すためにここへ集まってくる。
 中林副代表は、「何年も日本にいて、すぐにブラジル社会に溶け込めず孤立して悩んでいる人が多い。職案内もするけど、ブラジルの労働事情などを知らない彼らに、説明やアドバイスを行っている」と説明する。
 この日集まったうちの半数が金融危機で仕事を失い、未曾有の異常事態を見切って、三カ月以内に帰国した人だ。
 その一人、一月十三日に帰国した武田誠治さん(54、二世)は、ブラジルの留守家族(妻子)に仕送りしながら、静岡県菊川市の自動車部品工場に七年間勤めていた。
 知人を通じて直接雇用され、一年後に社員になっていたが十一月半ばに解雇された。
 派遣社員を含む六十人が働いていたが、ほとんどがブラジル人を中心とする外国人労働者。〇八年初めからだんだん人が減り、最後に残った武田さんを含む三人も、注文がゼロになったためにクビになった。
 「十二月いっぱいまであちこち仕事を探したけどダメ。日本におっても無駄遣いするだけだから帰国した」と苦渋の決断を振り返る。
 武田さんのように身動きが取れる人ばかりではない。「俺はこっちに生活基盤があるから(日本に)車も家も持ってなかった。だけど、車や家を買ったりして貯金してなくて帰れない人はいっぱいおった」と悲惨な状況を振り返る。
 日本では月々の家賃と変わらない金額で住宅ローンが組めると、かなりのデカセギが融資を受けている。今回の危機で失業し、返済が滞って差し押さえられる事態が起きていると推測される。どれだけいるのか、表面化するのはこれからだ。
 子供の教育などを考慮して生活基盤を日本にうつそうと決心していた人も多い。ローンを組み、日本人と同じように将来設計を描いている矢先、「今、本当に日本は仕事がない」(武田さん)状態になってしまった。
 デカセギに行く前、二十二年間会計事務所で会計士の仕事をしていた武田さんは、「また会計士として働きたいけど採るなら若い方がいいでしょ。ブラジルでは四十過ぎたら職は無いよ」と肩を落とす。
 「日本経済が回復するまで三年かかってもいいから、日本にまたデカセギに戻るつもり」。永住ビザを持つ武田さんは、再入国許可を取得してきた。三年以内なら、いつでもデカセギに行ける。
 十二歳の娘と年金受給者の妻を養うためにはそれが最善だと考えた。現在はそれまでのつなぎの仕事を探している。(つづく、渡邉親枝記者)

写真=円になって一人ひとり悩みを打ち明け、励まし合った(12日)