ニッケイ新聞 2009年3月18日付け
すがすがしい朝の空気の中、サンパウロ州との境にあるリオ州イタグアイ市のレストランで朝食をとった時、サンパウロ市在住の浜口洋さん(64、三重)は「渡伯して最初の二十年間リオに住んでいました。ここは私のふるさとです」とテレブラス勤務時代を感慨深げに振り返った。第三十一回県連ふるさと巡りの一行は前日、六日夜十一時半にサンパウロ市リベルダーデ広場を出発していた。今回はリオデジャネイロの四日系団体とモジ市のイタペチ植民地の計五カ所をまわる旅だ。普段はそれほど交流がひんぱんではないが、首都だったこともあり、リオは日本移民とゆかりの深い場所だ。今回の旅はそれを確認する良い機会となった。
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「こんなちっちゃい頃から知ってるわ。十五年ぶりに逢ったら、こんな立派な坊さんになって!」。一行の遠藤良子さん(85、二世)は、最初に仏式法要を行ったイタグアイにある本門佛立宗の法昌寺の責任者、吉川淳省導師(31、二世)を見て、感激した面持ちで駆け寄った。
吉川導師はブッフェ・コロニアル創立者の長男としてサンパウロ市で育った。九年間も訪日修行し、三年前に日本人の妻・恭子さんを連れて帰伯、一年前からここを任されている。「この寺はリオで一番古い寺。今年創立五十周年を迎えます」という。
最初に大内修事務局長があいさつし、朗々と読経が響く中、一行は順々に焼香した。長友契蔵団長は与儀昭雄県連会長のメッセージを代読。吉川導師は法話の中で、「創立五十周年のテーマは〃根〃です。移民が苦労して根を張った結果、私たち二世やブラジル人にも日本の文化や信仰が伝わった。さらに次世代にどのように回向や供養の大切さを伝えるかが課題です」とのべた。
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その後、ふるさと巡り一行はすぐ近くだが、リオ市に所在するサンタクルース日伯農村協会へ移動し、昼食会を兼ねた地元日系人との交流会に参加した。
「ゼッツリオ・バルガス大統領がコチアの下元健吉に、日本人を入植させてリオに新鮮な野菜を供給して欲しいと依頼し、一九三八年にこの植民地が生まれました」。第一回入植者の渡辺一喜さん(84、熊本)は、一行を前にそう歴史を語りはじめた。
リオが首都だった一九三七年、大統領の意を受けたフェルナンド・コスタ農相がコチア産組に申し込み、下元らが直々に下見に訪れ、土地の肥沃さに目をつけ、トマト生産の可能性を見いだした。翌三八年、要請に応えて、モジやスザノで野菜作りをしていた組合員をさっそく送り込んだ。
当時、サンパウロ市近郊の野菜は供給過剰気味になっており、条件の良い土地に移りたいという農家も多かった。
渡辺さんは「六月に入植した。まだブレジョン(沼地)で、歩いたら膝までぬかるむようなところ。なんとか乾かしてトマト作った。電気もない、水もない、あるのはマラリアだけでした」。生き証人の重みのある言葉に、一行は静かに聞き入った。
州政府も浚渫工事で水位を下げる作業を進めていたが、入植当時はまったく間に合わなかった。
数年の間に合計三十家族が入植した。翌三九年九月に大統領は植民地を視察にきた。「よくこれだけ立派な野菜作ってくれたと大変喜んで、戦争中でもここの日本人には、とてもよくしてくれた」と振り返る。
渡辺家は第一次入植者としてモジからリオに移転してきたが、実はその前、パラー州のアカラ植民地(トメ・アスー)に住んでいた。だから一喜さんの弟、三吉さん(73、二世)はそこで生まれたという。
人数こそ少ないが、コロニアに根を張った伝統ある植民地だ。(つづく、深沢正雪記者)
写真=イタグアイ市の法昌寺で焼香するふるさと巡り一行